文化功労者、日本芸術院会員、一水会会員の有島生馬は、昭和47年(19725月に「さつきくもり」を最後に絵筆を置き、鎌倉七里ケ浜の自邸「松の屋敷」で、昭和49年(1974)9月15日に91歳で亡くなりました。雑誌『白樺』でセザンヌを日本に初めて紹介するなど近代日本洋画界に大きな足跡を残しました。
 昭和25年(194511月に信州新町を訪ね、このとき北アルプスより流れる犀川の青碧色のダム湖に「琅鶴湖」と命名、以来四季折々の信州新町の自然と温かく素朴な人情を愛し、佐藤春夫詩碑除幕式に来町された85歳まで8回の来遊を重ねました。

明治15年(1882)0歳
神奈川県横浜区(現神奈川県横浜市)に有島家次男として生れる。本名壬生馬、後に生馬と称し、雨東生・十月亭の号を持つ。
明治29年(1896)14歳
東京府東京市麹町区(現東京都千代田区)に移り住む。
明治34年(1901)19歳
イタリア文学研究を志して東京外国語学校伊太利語科に受験入学。
明治36年(1903)21歳
小諸に島崎藤村を訪ね、洋画を学ぶ決心をする。
明治37年(1904)22歳
東京外国語学校伊太利語科卒業。直ちに洋画を学ぶため、藤島武二に入門する。
明治38年(1905)23歳
イタリア留学のため出発、ナポリ上陸、ローマ着。国立ローマ美術学校に入学する。
明治40年(1907)25歳
パリでのセザンヌ回顧展を見て深い感銘を受け、学校での指導を嫌悪、自らのアトリエで制作に耽る。
明治43年(1910)28歳
留学から帰国。麹町区に居住。『白樺』が創刊され、同人となる。
「画家ポール・セザンヌ」を『白樺』に発表する。
上野竹之台陳列館にて「有島壬生馬滞欧記念絵画展覧会」を開催、70点を出品。
原田豊吉次女信子と結婚。
明治44年(1911)29歳
長女暁子生れる。この年から文展に出品する。
大正2年(1913)31歳
この年の2月ぐらいから壬生馬と称する。『白樺』に「回想のセザンヌ」翻訳を発表する。
大正3年(1914)32歳
文部省から独立して「第二科美術展覧会」を創設する。
大正9年(1920)38歳
肺尖を止み、鎌倉極楽寺村(現鎌倉市稲村ケ崎)の新渡戸稲造の別荘に転地静養。
大正10年(1921)39歳
新渡戸稲造別荘の近くの「松の屋敷」を購入、転居する。
昭和3年(1928)46歳
渡欧、滞仏中にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を叙勲される。
昭和7年(1932)50歳
『有島生馬全集』第1巻を改造社より出版する。
昭和10年(1935)53歳
帝国美術院会員に任命される。二科会脱退。
日本ペンクラブが創設され、副会長に就任(会長島崎藤村)。
昭和11年(1936)54歳
日本ペンクラブ代表として、島崎藤村夫妻と共に、アルゼンチンで開催された第14回国際ペンクラブ大会に出席する。一水会を創立。
昭和12年(1937)55歳
伊太利亜中亜極東協会にて講演。ローマ滞在中、イタリア政府から叙勲される。
昭和14年(1939)57歳
生馬を慕う私的な会として黒門会が結成され、第1回黒門会展を開催する。
昭和15年(1940)58歳
紀元2600年奉祝美術展覧会委員となり、鑑審査にあたる。奉祝美術展に「朝」を出品。
昭和20年(1945)63歳
6月に長野県南佐久郡田口村清川(現佐久市臼田)に東郷青児らと疎開する。11月に野沢町鍛冶屋(現佐久市野沢)に移る。
昭和22年(1947)65歳
日本芸術院会員となる。
昭和25年(1950)68歳
11月に上水内郡水内村(現長野市信州新町上条ほか)を初めて訪問。水内ダム湖を「琅鶴湖」と命名する。
昭和32年(1957)75歳
野沢町を引上げ、鎌倉の「松の屋敷」に戻る。
昭和33年(1958)76歳
社団法人日展創設され、常任理事となる。信州新町役場新築完成にあたり、「俗塵都不染」の記念額面を寄贈する。
昭和39年(1964)82歳
ローマ日本文化会館長呉茂一の招聘で渡欧する。文化功労者に推挙される。
昭和40年(1965)83歳
勲三等旭日中綬章を叙勲される。
昭和43年(1968)86歳
佐藤春夫の琅鶴湖詩碑を揮毫し、詩碑除幕式に出席する。
昭和46年(1971)89歳
信州新町美術館において、琅鶴湖命名20周年記念「有島生馬回顧展」を開催する。
昭和49年(1974)91歳
勲二等瑞宝章を受ける。915日に死去。同月24日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で一水会・二科会の合同葬儀が行われる。