<<令和8年1月4日 定例禅会>> 参加者:7名 会場:サンライフ長野

 新春初坐禅会の募集案内などが奏功し、新しく3名の女性の参加がありました。
 ご提唱は「慈悲の瞑想」でしたが、初参加者への配慮から作者スマナサーラの略歴および内容の概略―仏教のエッセンスが含まれていること・声に出すと中身が身心に沁み込んでいくことなど―から始まりました。C1からC10までを輪読し、その都度桐山老師が重要な事柄について解説等をするという形で進めました。
 例えば、C1の「物事は常に変化して消え去るものである」に対しては無常観を説かれ、「今ここでするべきことに集中する」に対しては数息観のひとーつーならひとーつーに成り切っていくことである、という具合です。C3の「全ての生命が私の兄弟である」に対しては、人間だけでなく動物まで含めて兄弟であると思えるならば、これはもう悟りである、トランプ大統領はこれと真逆に自分と他人の生命とを分離しているので、対立や戦闘等が広がっていると語ります。C7の「全ての生命は自分の業を相続し、この業に管理されて生きている」に対しては、ここは唯識思想の中心的考えの一つなのでよく考えて欲しい、また、C8の「私は他と平等だと思うことは平等慢である」では、エゴの錯覚と書かれているが、常識的には理解しにくいので、よくよく考えて欲しいと投げかけられました。C10の「全ての生命に苦しみを乗り越えることができますように」は、心からの強い祈りが込められていると結ばれました。
 私たちはほぼ無心で物事を行っているが気づけない、気づくには物事に没頭し、我に返ったときに無心だったことが分かる、と重要な心構えや実践法を示して頂きました。
 ありがとう禅や観音禅をした後、各自感想等―成り切ることの大切さが分かった・楽しくできた・やや長い坐禅に耐えることができた・もう少し深く提唱を聞きたかった等―をのべて散会しました。



<<令和8年1月18日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:円成寺

 寒波襲来前の比較的穏やかな日でした。
 ご提唱は、初心者への配慮から3つの復習で進みましたので要点を記します。
 一つ目は、昨秋正受庵坐禅会のご提唱「無心ということ」の中から、@お経を読誦する時などは、自分とお経とが声によって本当に一つになって無心になること、Aニールスボーアの相補性の原理では、意識と無意識(無心)とは互いに補う合うものであること、B道元の現成公案では、「自己を忘るる」や「心身脱落」は無我・無心であること、C岡田利次郎先生の「見ようとしないでも見てしまっていて、これは無心のはたらきであること、ここに盤珪禅師の自ら出口を塞ぐ庵での決死の覚悟で行った坐禅の話を加え、とことん物事に没頭することの大切さを語られました。
 二つ目は、唯識大円鏡智図を用いて「全ては自己ということ」について話されました。見性を一口で言うと、全ては自己であることを自覚することである。人間は誕生した時は純心な赤子の心(仏心・無我)だが、成長するにつれて自我が芽生え自他の区別・分別知などが生じ、苦悩・対立に悩んだり闘ったりする。ここで坐禅をしたり物事に没頭したりすることで、自他の境界がなくなり大円鏡智が顕現する。これが全ては自己ということで、悟りとも見性ともいわれる、と説明されました。
 三つ目は、「慈悲の瞑想」(スマナサーラ)の輪読と解説でした。とりわけ強調されたことは、@これは仏教のエッセンスであるから声を出して繰り返し読誦すること、AC6の大地に関わって、大地がどんな汚れた物でも毒でも分解・浄化する偉大で不思議な力をもっていること、BC7の業に関わって、我々は業に管理されここから一歩も出られない、幸不幸も業の力であることを思って真剣に生きること、CC9の欲に関わって、億万長者は更に欲張り際限ないこと、無常に関わって、心の深いところで無常を認めていない、無常を本当に認めればこれは悟りである、とまとめられました。
 終わりに、ありがとう禅と観音禅を行って散会しました。       (文責:峰村)



<<令和8年2月1日 定例禅会>> 参加者:6名 会場:サンライフ長野

 二月初日の穏やかな日でした。
 ご提唱は、坐禅開始時に直日が引用した大灯国師の遺誡の一節「只須らく十二時中、無理会の処に向かって究め来たり究め去るべし」を受け、桐山老師の「頭での言葉や理屈ではなく、身体での行為や行動の方が正しい。こういう考えは坐禅から出てくる。」と言うところから始まりました。
 続けて、涅槃経でも「山川草木悉皆成仏」と説いている。我々を含めた山川草木は、理屈を超え皆ことごとく仏として現われている。白隠の「この身即ち仏なり」も如来像思想の典型で、これを坐禅などで自分のものにしなければならない、と展開されました。
 本題は「慈悲の瞑想」で、各章ごとに全員で読誦し大事な点を老師が会員に質問をしたり、会員が見解を述べたりする仕方で、参加者全員の理解を深めようとされました。桐山老師が強調されたことを列記します。@「慈悲の瞑想」は仏教思想や唯識思想が盛り込まれていて、祈りでもある。また、精進したいとあるから、我々もこれに応えなくてはならない。私(老師)は、今日一日をこの心で暮らしていこうと思い、毎日「慈悲の瞑想」を声に出して読んでいる。A即今只今のここに生きることは禅である、これにより不安・悩みから解放される。B慈しみの気持ちで他人に優しくすることは菩薩である。この心はみんなに備わっている。C「仏教の中心的な教えは平等である筈なのに、見下したり差別したりする。従って世界中は争いだらけである。D「全ては自分(自他一如)である。「全ては自分です、と自分に言い聞かせると本当にそうなってくる。E業に支配されて生きている認識をもちたい、エゴの錯覚である慢から離れるように精進したい、際限のない欲をのり越えたい、人生は苦であることを認めたい、これらができるようになれば悟りになる、夢と希望をもって生きて欲しい。是非声に出して慈悲の瞑想を読んで下さい、と老師ご自身の悲願・祈りで結ばれました。



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