<<令和7年11月16日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:円成寺

 見事な紅葉に秋たけなわを感じる日でした。桐山老師は、柿もぎの際の打撲で身体の痛みをおしての出席でしたが、桐山老師のこの会に懸ける情熱・熱意に、敬意とともに道を求めることの気高さを感じました。
 ご提唱は、紅葉に絡めて「峰の色 谷の響きも さながらに 我が釈迦牟尼仏の 声と姿と」(道元)を引用し、真実の在り様と言葉との関係から入られました。工夫して表現した大円鏡智の図を示し、言葉は真実そのものではないこと、自分と他は本来一つであることなどを念入りに説かれました。
 仏祖は、言葉で真実を表そうとしたが、この言葉は月(そのもの自体)を指す指であるから、そのものを素直にそのまま捉えるには直観が必要で、坐禅などの禅経験が大切であることを強調されました。
 ご提唱の本題は「無我」で、これを様々な角度や事例―ニールス・ボーアの相補性の原理や刀匠宮入の「極意は言葉では教えない」など―を用いて懇ろに語られました。
 質疑では、中村さんの疑義(「無を媒介にして」や「月を指す指について」など)を巡っていろいろ解答や意見が出されました。それでもなお、「指す指を理解したい・指はどういう方向を指しているのか」「ものに成り切ると言うが、「空」は二つあるのか」「真実をそのまま捉えることは可能なのか」という素朴かつ根底的な疑惑は残りました。しかし、この問題提起は他の会員の禅理解を深める契機にもなり、更には会員拡大への糸口にもなり得るという意味でも、大変貴重な時間となりました。
 最後は、久しぶりの「観音禅」による倍音で、気持ちよく帰路につくことが出来ました。



<<令和7年12月7日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:サンライフ長野

 小春日和の明るい日差しの穏やかな日でした。ご提唱は、「無我ということ」の復習から始まり、「慈悲の瞑想」へと進みました。重複しないように「慈悲の瞑想」を中心に概要を記します。
 第1章は「無常観」が中心で、物事は絶えず変化し消えたり新しいものが創造されたりする。縁起とも言える。桐山老師が以前に作曲された「方丈記」(鴨長明)を朗々と歌い、無常観を表すには月を指す指のような言葉ではだめで、情感をのせた音楽の音の方がよい、生きる励みになるからと語られました。第2章では、「慈しみ」に関して質疑応答がありました。
 質問@「慈しみの気持ちがどういうことかよく分からない」に対する老師の応答「物や人を大切にして丁寧に扱うこと」、質問A「人を大切にするとはどういうことか、漠然としている」に対する応答「言葉ではなく、そこに働くことに依って自覚できる」、質問B「人を慈しんだことがないかも知れない」に対する応答「そんなことはない、景色が美しいと感じることなどが慈しむことに繋がっている」、質問C「慈しみの気持ちが現れますようにという表現は、慈悲の気持ちが無いことが前提になっているのではないか」に対する老師の応答は「〇〇のように(如し)と言われることは祈りではないと言われるが、これは祈りだと思う。
 別の会員の応答は「雲晴れて 後の光と思うなよ 元より空にありあけの月」(法然)と詠われているように、無いが前提ではなく(雲に)隠れているのが前提ではないか、という具合でした。第3章では、自他一如を「風水の利益に与る(道元)」を引用しつつ、山が私で私が山である、第4章では、自分が悟ると自然が悟りを開く、周りのものは全部私であるなどと展開されましたが、他の参加者の補強的意見もあり、充実したご提唱になりました。
 終わりにありがとう禅・観音禅を唱えて散会しました。



<<令和7年12月21日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:円成寺

 師走にしては温かな日でした。桐山老師のご提唱は、全国高校駅伝女子の部で長野東校が優勝というニュースに絡め、無心でただ走ることや成り切ることの大切さから始まりました。
 本題は「慈悲の瞑想」のC7とC8でしたが、復習を兼ねていましたから、概ね老師と会員の質疑応答のような形で進行しました。C7では「すべての生命は自分の業を相続する、自分の業に管理されて生きている」という本文や、この説明「自分の行いの積み重ねが今の自分であり、ここから一歩も出ることが出来ない」に対し、会員から「自分の業と自他一如は対立しないのか、自分の善悪の行いが自分に返ってくると言うが、この自分は自他一如に入るのか」という質問が出されましたが、老師からは「業と自他一如は結びつかない」、更に「自分で蒔いた種の他に、親から代々伝わっている『普遍的無意識』も自分の中に受け継がれている」と唯識思想の要点も付加し、自・他及び業・行為の微妙な差異が語られました。
 また、C8の「エゴの錯覚」では、高慢・平等慢・卑下慢が話題になり、「どの慢もだめならどうすればよいのか、他と比べるなと言っているのか」という会員の疑問に対して、他の会員から「陽と陰」・「東洋と西洋」などは初めから違うが、対立や暴走ではなく融合しなければならない、という意見も出されました。これを受けて老師からは、キリスト教での原罪などヨーロッパ独自の発想があり、東洋・日本の発想とは違う(同時に相補性をもつ)とまとめられました。
 ご提唱での質疑応答は、参会者の理解を深めていく有効な形態であることが今回も確認できました。          (文責:峰村)



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