小雨が時折ぱらつく時期でしたが、飯島老師と高橋さんをお迎えしての坐禅会でした。
午前は、私(峰村)が「禅とアニメーション」と題して、ワークショップも採り入れながら提唱を行った。時計の針先が1・2・3・・・と文字盤上を弧を描いて進むように、少しずつ弧を伸ばして描いた12枚の画を束ねてパラパラめくると動画のようになる。次第に出来上がっていく動態の円相をいのちの吹き込まれた円相(アニメーション)と見立てる。こうすると、山本老師の経机を叩く「トントン」は円相の音バージョンであり、桐山老師の楽曲の演奏は円相の音声バージョンとなる。更に谷川俊太郎の「生まれたよ ぼく」の詩は、禅での生死一如や釈尊の無情説法の意にもとれるということで、円相の詩バージョンであると話した。
いずれも、固定的な静態(画・言葉等)にそれ固有のいのちが吹き込まれ動態(動画・演奏等)となったときに、生きたいのちを感じられることを伝えたいという内容であった。
午後は、飯島老師が「無門関22則 迦葉刹竿」の提唱をされた。阿難は記憶力では抜群であったが悟ってはいなかった。迦葉は「阿難」と喚んだ。阿難は「はい」と応えたが、この問答段階では決着がつかず(悟れず)、迦葉が「門前の刹竿を倒せ」と言った瞬間に阿難は悟った。問答の時の「阿難」も「はい」も単なる言葉であったが、「門前の刹竿を倒せ(一切が完了)」の段階で、言葉が言葉を超えて自我の粉砕になった、つまり阿難が迦葉の発する音声と一体となり悟ったのである。頭を使って概念的に考えると、いつまで経っても悟れない。目で見た通りのことしか起こっていないのに、我々は頭を使って物事を歪(ゆが)めているし、迷っていると思い込んでもいる。これを打ち破るために公案があり独参がある。これに依って目が覚める。覚めて起きてみたら「これか」と分かるし、誰もが必ず悟れる。誰もが元から悟っているのだから、と激励して頂きました。
茶礼では、両提唱から多面的な話が展開しました。「一円相」については、「花あり 月あり 楼台あり」から「無一物中 無尽蔵」などへ、「言葉」については、論理・理屈は本質から離れるが(言葉で表現する)詩はポーンと超え飛んでいくところがある、聴衆を唸(うな)らせたトランペットの音色は「一音成仏」であるなどへと、参加者が互いに提唱し合っているような雰囲気がありました。
飯島老師を囲んで有志での慰労懇親会では、正受庵のこと・長野禅会のこと・不二道場でのことなどを、お酒の力も借りながら楽しくかつ本音でも語りあえて、意義ある一時(ひととき)となりました。 (文責 峰村)
|