<<令和7年6月15日 定例禅会>> 参加者:8名 会場:正受庵

 小雨が時折ぱらつく時期でしたが、飯島老師と高橋さんをお迎えしての坐禅会でした。
 午前は、私(峰村)が「禅とアニメーション」と題して、ワークショップも採り入れながら提唱を行った。時計の針先が1・2・3・・・と文字盤上を弧を描いて進むように、少しずつ弧を伸ばして描いた12枚の画を束ねてパラパラめくると動画のようになる。次第に出来上がっていく動態の円相をいのちの吹き込まれた円相(アニメーション)と見立てる。こうすると、山本老師の経机を叩く「トントン」は円相の音バージョンであり、桐山老師の楽曲の演奏は円相の音声バージョンとなる。更に谷川俊太郎の「生まれたよ ぼく」の詩は、禅での生死一如や釈尊の無情説法の意にもとれるということで、円相の詩バージョンであると話した。
 いずれも、固定的な静態(画・言葉等)にそれ固有のいのちが吹き込まれ動態(動画・演奏等)となったときに、生きたいのちを感じられることを伝えたいという内容であった。
 午後は、飯島老師が「無門関22則 迦葉かしょう刹竿せっかん」の提唱をされた。阿難あなんは記憶力では抜群であったが悟ってはいなかった。迦葉は「阿難」とんだ。阿難は「はい」と応えたが、この問答段階では決着がつかず(悟れず)、迦葉が「門前の刹竿を倒せ」と言った瞬間に阿難は悟った。問答の時の「阿難」も「はい」も単なる言葉であったが、「門前の刹竿を倒せ(一切が完了)」の段階で、言葉が言葉を超えて自我の粉砕になった、つまり阿難が迦葉の発する音声と一体となり悟ったのである。頭を使って概念的に考えると、いつまで経っても悟れない。目で見た通りのことしか起こっていないのに、我々は頭を使って物事を歪(ゆが)めているし、迷っていると思い込んでもいる。これを打ち破るために公案があり独参がある。これに依って目が覚める。覚めて起きてみたら「これか」と分かるし、誰もが必ず悟れる。誰もが元から悟っているのだから、と激励して頂きました。
 茶礼では、両提唱から多面的な話が展開しました。「一円相」については、「花あり 月あり 楼台あり」から「無一物中 無尽蔵」などへ、「言葉」については、論理・理屈は本質から離れるが(言葉で表現する)詩はポーンと超え飛んでいくところがある、聴衆を唸(うな)らせたトランペットの音色は「一音成仏」であるなどへと、参加者が互いに提唱し合っているような雰囲気がありました。
 飯島老師を囲んで有志での慰労懇親会では、正受庵のこと・長野禅会のこと・不二道場でのことなどを、お酒の力も借りながら楽しくかつ本音でも語りあえて、意義ある一時(ひととき)となりました。  (文責 峰村)



<<令和7年7月6日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:円成寺

 猛暑でしたが、冷房が効く和室で快適に坐れました。桐山老師のご提唱は、日ごろ感じている8項目(著書がAIによって英訳されることは画期的であるが、AIを人類に利するように活用することの大切さ、トランプ大統領の核施設の攻撃を正当化する暴言は自我意識の塊からでていること、広く豊かで大らかな気持ちになる浩然の気を養うことの大切さ、ストイックに生きることは他に対して優しさや慈しみの心もつことになる等)に亘って、ご自身の体験などと重ねて語られました。 中でも「慈悲の瞑想」(スマナサーラ)については、時間をかけ丁寧に取り扱われましたが、これはこのようになりたいという「祈り」であることを確認するためでもありました。具体的には第1章から第7章まで輪読したり、意見交換したりしながら進めました。桐山老師からは各章の重要語句のポイントを押さえた解説(即今只今の心、大地は解毒する力をもっている、業にかかわる因果応報思想=野狐禅)や問いかけ(周りの人を自分の兄弟と思えるか?)がなされました。会員からは、「慈悲の瞑想」に関わる疑問点(第3章と第4章の順序が逆ではないか、全ての生命が兄弟ならば幸不幸はないのではないか等)なども提出されました。いずれも、これまでのご提唱の拝聴や各自の禅修行を通しての深化であり、盛り上がりであったように思えました。 終わりに、英訳本の表紙デザインを提示(概ね良好、英語ネイティブの方の直観も参照)して頂いたり、7月中旬の不二道場での摂心参加の確認をしたりして散会しました。



<<令和7年7月20日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:サンライフ長野

 酷暑の中、本堂を全開にして坐禅に取り組みました。桐山老師のご提唱は、七月の不二道場摂心の報告から始まりました。当初の予定・予想とは違った面もあったのですが、墓参・食事・作務・泊を伴う釈迦牟尼会の本山で深く集中して坐禅・独参ができたことは、長野禅会から初めて参加した二人(久恒・中村)にとって貴重な経験になったとのことで、良かったと思います。本題は、桐山老師の数項目の関心事が語られましたが、AIが人類にもたらすのは破壊か?新たな希望か?の項目に力点が置かれていました。AIは論理的な思考や知識・計算などは人間より優れている。反面、AIは創造・概念化・戦略策定が出来ず、共感や同情もできない。また、五感情報を手先の器用さと連携させるのが苦手で精巧な職人技再現は至難の業である。この現状では、AIの普及によって富を得る超富裕層や企業は恩恵を受け、一般の労働者は仕事を失い社会が二極化し荒廃する。この事態を避けるためには、単純作業はAIに任せ、人間は創造的な仕事に集中すること。AIに命令し活用するのは人間だから、人間性・徳性を高めることが大事である。そのためには知識ではなく智慧をもつことであるが、禅には「放下着」や「百尺の棹頭一歩を進む」という言葉があり、これらに依拠すれば危機的状況を打開し新たな世界が開かれる可能性や展望をもてる、と語られました。  不二道場摂心の報告を受け、会員からは釈迦牟尼会の現状について質問・意見が出され、ここから長野禅会の今後の在り方にも話が発展しました。話題は、会場確保・ボランティアでの運営・財政問題など多岐に亘りましたが、新たな活動への萌芽・熱量・希望を感じる話し合いとなりました。



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