<<令和7年3月16日 定例禅会>> 参加者:6名 会場:円成寺

 3月も半ばを過ぎましたが、肌寒い小雨の日でした。
 ご提唱は、桐山老師の奥様が亡くなられたことに関係して、生死にまつわるお話でした。まだ、奥様の逝去を受け容れない日が続き動揺しているとの心境を吐露されながらも、生死を深く洞察された禅者としての姿勢を示して頂きました。具体的には、「人は適当な時に死ぬ義務がある。・・・孤独と絶望こそ人生の最後に味わって死ねばいい境地なのだ。・・・この二つの感情を体験しない人は、多分人間として完成しない」(曽野綾子)や、「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし・・・」(修證義)の言葉を、ご自身の直近のご体験と重ねて紹介して頂きました。また、奥様が生前に車椅子での生活を余儀なくされるような状態になった時に、「今ほどしあわせな時はない」と近所の方々に語っていたという事を、感謝して人生の最期を迎えたいというご自身の願望を込めてお話しになりました。私たちは、親や兄弟が死んでもなかなか本気で死について考えられない、あるいは時とともに癒されていくのか、段々と心が平穏になってきます。しかし、伴侶の死に直面したらうろたえるのか、憔悴するのか、更に、自分自身が死に直面したら周囲に感謝できるのか、もがきあがくのか、という事などを考えさせられる究極のご提唱でした。
 奥様のご冥福並びに桐山老師のご健勝をお祈りしつつ、拝聴致しました。終わりに、6月15日の正受庵坐禅会の計画案を確認して散会しました。  (文責 峰村)



<<令和7年4月6日 定例禅会>> 参加者:6名 会場:サンライフ長野

 桜の花が咲きかけていましたが、やや肌寒い日でした。桐山老師は、奥様が亡くなられた事を契機に、「人の死」について深く思索され、このご提唱をされました。人は死後、分子・原子・素粒子などに分解されていくが、無くなってしまうわけではない。量子力学的に言えば、素粒子は物でもあり波でもあるので、エネルギーの波動としても広がる。人と別れてもその人の波動が残存し、その後の社会の空気を作っていく。つまり、奥様の思いは、夫である自分にも子や孫にも波動として伝わっていく。人の生死を宇宙大の生命の循環の中で捉える量子力学的無常観の方が、科学的に納得できると思われる。春夏秋冬に様相を変える草花と同様に、人間も自然の大きな力によって生かされている、生きることの神髄はここにある。
 これを補強するように、久恒さんの「人は二度死ぬ、まず死んだとき、次に忘れ去られたとき(永六輔)」から「死んでも忘れられなければ生きている、これは自他一如になるのではないか」との言葉を紹介されました。更に、「慈悲の瞑想」からは「私の慈しみの気持ちが、全ての生命のこころと一体になりますように」・「太陽光が隈なく照らすように、私の慈しみの光が全ての生命のこころを照らせるように、無制限に慈しみのこころを育みます」を語られました。いずれも、死を禅的に捉える内容であり、最愛の方を亡くされた体験者ならではの実感がこもった切実で深いお話でした。
 終盤には、桐山老師が予定している四冊目の著書の構想(禅とスポーツ)が示されました。最後に、6月15日開催の正受庵坐禅会準備の確認をして散会しました。



<<令和7年4月20日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:円成寺

 春爛漫にして季節外れの暖かな日でした。
 ご提唱は、冒頭に春爛漫の風景にちなんで桐山老師から「峰の色 谷の響きも皆ながら 吾が釈迦牟尼仏の声と姿と(道元禅師)」の和歌を紹介して、日本には素晴らしい四季の移ろいがあって豊で幸せな気持ちになるとの話がありました。
 本題の主旨は、以下の通りでした。人には色々な苦しみがあるが「現実世界より想像の世界で苦しむことが多い」、という哲学者セネカの言葉や、「未来と現実との比較、他人との比較によって様々な苦しみが生まれる」、という起業家 佐藤航陽の言葉を引用して語られた。また「AIが自我を持つことによって、人間を排除するようになるのではないかという不安」等、現代に生きる私たちの苦しみは多岐に渡って存在する。「ゆるストイックに生きる」(佐藤航陽著)」からヒントを得たが、「比較せず」、「競争せず」、「少しの独自性を貫く」生き方をすることや、仏教では「あらゆる利害や駆け引きを超えた、無我、無心にして素直な心で生きること」によって、人間本具の苦しみから離れることができるのではないかと語られました。               (文責 田中)



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