<<令和7年2月2日 定例禅会>> 参加者:7名 会場:サンライフ長野

 例年とは一日ずれた節分の日でした。坐禅開始前の直日の丹田・気海に絡む呼吸の話を承けて、桐山老師から綿密なお話―丹田・気海を意識した呼吸の繰り返しによって、気力が充実し禅定力が高まっていく事など―がありました。
 本題は、桐山老師の出版予定著書の原稿の検討でした。原稿は、桐山老師の精力的なご努力でほぼ完成に近づいていましたが、一年以上かけてご提唱をお聞きしその都度検討を重ねてきたこともあり、会員の考えや眼も鋭くなりその場で配布された原稿に対しても細かな事やうっかりミスにも気がつくようになりました。協働作業・複数の目でのチェックが有機的にはたらいていました。本原稿を全体的にみると、今回の著者桐山老師の禅に関する著作の射程距離・守備範囲は各段に広がり、かつ進化・深化していると思います。同時に、重要個所には引用・解説なども入れて、読者への気配りもなされています。こうした配慮に加え、更に出版に向けての周到な準備―サブタイトルの構成や装丁用及び挿入写真の用意など―を怠りなく進めていますので、精度・確度が一層上がっていくものと思われます。



<<令和7年2月16日 定例禅会>> 参加者:7名 会場:円城寺

 比較的温かな午後でした。ご提唱に先立ち、桐山老師が前日に参加された講演会の報告がありました。
 内容は、哲学的対話による文章の書き方です。大学教授の講演後、参加者が4人くらいのグループに分かれ、各自が自由に文章を書いて発表し、それを互いに講評・質問を出し合って相手に伝わるような質の高い文章にしていく事などを話してもらいました。この報告から、仮想と現実との結びつきや、知識と直観との混在などを意識したり考えたりする事で、ものごとの真実に迫った文章が書けるようになる、という感想を持ちました。
 本題は、桐山老師の出版予定の原稿を読んだ飯島老師が、感動したという個所を会員にも示して頂き、再度確認したことです。
 「我々は主・客の二元論で物を見ているが、唯識や禅では『構想された形としては、物がないということ』(唯識二十論)とされる。主も客も構想されたものであるから、在るとか見るとかといっても、真実在ではなく夢・蜃気楼のような虚妄なるものである。最高の真実は、虚妄なる表象を離脱した心である。これが分かったら悟りである。」と結ばれました。この事は、前段の「哲学的対話による文章の書き方」にも通じる面と、不可解に感じる面との両面があり、多くの人にとっては深遠なる課題ではないかと思いました。
 桐山老師から、2月8日理事会の事・山本老師へのお見舞いの事・出版予定著書の進捗状況の事などをお聞きして散会しました。



<<令和6年3月2日 定例禅会>> 参加者:7名 会場:サンライフ長野

 春・弥生の穏やか日でした。坐禅と独参が終了したところで、桐山老師から奥様が亡くなられたとのお話がありました。病院での治療が済み、特養へ入所された事をお聞きし、しばらくは安泰かなという気持ちでしたので、皆驚きながらも心の中でご冥福をお祈りしました。この日の夕刻からお通夜ということで老師はご退席されましたので、峰村が代わって講話をすることになりました。
 以前に作成した絵図入りの資料を配布し、絵図を見ての初感・疑問等を出して頂き、それに応えられるように話しました。
 内容は、正受老人が少年の時に、「お前には観音様がついているから念持仏は書けない」と言われ、「観音」が公案になった。ひたすら考え続けていたところ、階段を踏み外し気絶したが、周囲の介抱で正気を取り戻した。
 この瞬間、「分かった」と言って大笑いをした。この場面を、観音像(想念の像)―一円相(自失)―観音像(蘇生後の像)の三枚一組の絵図で示した個所ですが、「ここが実感できない」という意見を巡って、参加者の意見交換がありました。ここは本会公案の初関(無字)とも重なるところですので、誰にとっても言葉でのやり取りだけでは難しく、師家方の提唱(無門関一則)でも曰く言い難しの難所でもあります。しかしながら、分からない・分からないと言いつつ追究し続けるそのこと自体に大きな意義があることを、お互いに感じ合ったひと時でした。



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