本当の秋らしい穏やかな一日でした。
桐山老師のご提唱は、直日が坐禅開始時に話した「分別と無分別」を受けて、分別と無分別とを隔てている境目の壁は、目の前の事に丁寧に集中することで自然に崩れ去っていくという、絶妙なお話から始まりました。向こうに何かがあり、こっちに私があると思っているが私には煩悩や欲があり、そのため駆け引きや奪い合いが起こり行き詰る。これを打開するために坐禅をするのです、と。
本題は、出版予定の著書の基本構想でした。主な内容は、@今まで量子論やAIについての基本・長所・短所等を踏まえ、予想される脅威等を探ってきたが、これを使う人間の側に問題があることが鮮明になってきたこと。A量子力学に東洋思想を採り入れたニールスボーアが「相補性の原理」という哲学によって実在に近づいたように、我々も禅の心によって再度理解を深めていく必要がある。B嘗て皆で話し合ったときに、唯識のような難しいことで無く、二元論としての科学から説き起こした方が良いという意見だったが、桐山老師は禅の背景にある認識論は「唯識」だと考えられるので、禅を生きるUでは、この唯識(一元論)から説き起こしたいと言われたこと。禅は相反するものを排斥せず、全体を俯瞰してそっくりそのまま捉えることができる一元論であること、などです。以上は、桐山老師が何時でも何処でも気づいたときにできる音声入力よる記録のプリントを元にして語られた事で、参加者にも意見を求められました。
主な意見は、予見(未来)することは今ここに集中することに反しないか、俯瞰はなお誰かの眼で見ているので何元論になるのか、など禅の基本に関する疑念でしたが、相互の意見交換で分かったものもありましたが、禅の実践によるしかないという課題として残ったものもありました。しかしながら質疑を含むご提唱は、現代に相応しい対話を取り入れた進取的で挑戦的なスタイルだという感じがします。
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