<<令和6年4月21日 定例禅会>> 参加者:8名 会場:円城寺

 やや霞んではいましたが、新緑がきれいな日でした。
 桐山老師は、「やわらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに」(啄木)の短歌に、「峰の色 谷の響きも皆ながら、わが釈迦牟尼仏の声と姿と」(道元)と「神とは自然である」(スピノザ)の言葉などを重ね、移りゆく季節の変化だけでなく、自然のもつ奥深い美と力に私たちの目と心を向けて下さいました。
 また、最近のテレビ報道から共にルワンダ人のツチ族とフツ族との凄惨な殺し合いを例に、人間の心の闇についても語られました。条件さえそろえば我々もそのようになる危機を孕んで生きているという事を、映像で迫るタイムリーなお話でした。
 この詳細を、作品発表会(「山の音」会6月9日)に向けて「箏の弾き語り」にアレンジされた「歎異抄」にふれつつ、親鸞の言葉に繋げていかれました。親鸞自身も罪悪深重・煩悩熾盛の衆生であることを自覚し、「然るべき業縁がもよおせば人千人殺すこともあるべし」と述べている。このような「悪人」こそ救って下さるのが弥陀の本願であり、「歎異抄」はこの「悪人正機」思想が背景にある。
 今回は語りの名士、友渕のりえさんの箏の弾き語りで演奏して頂くので、是非聴いて欲しいと紹介されました。発表会に向けての準備等もあり、禅を生きるUの原稿執筆に手が回らなかったが、これからは会員の意見も採り入れながら、執筆に本腰を入れていきたいと結ばれました。
 最後に、6月の正受庵坐禅会に向け細部の検討や詰めを行って散会しました。



<<令和6年5月12日 定例禅会>> 参加者:6名 会場:サンライフ長野

 新緑が深緑へと進む時期でした。直日の「禅や仏教の難しさの一つは、目覚めているのに更に目覚めよと言われることである」を受けて、桐山老師のご提唱が始まりました。
 目覚めることとは、法身に目覚めることである。自我意識から離れて無我意識になり、全てのものが自分であると分かることである。山を見れば山が自分であり、地球が自分である。そのためには、自己を忘れることであり、万法に証せられることであり、これが目覚めであり悟りである。これをやらないと坐禅や生きている意味がない。
 道元は「身心脱落」で、ニールス・ボーアは「相補性の原理」でこのことを示しているが、二つの相反するもの(明暗・男女・善悪・・・)が、互いに補い合いながらワンセットで存在している。自分が見聞きする対象そのものに成り切ることだが、坐禅が最も端的な方法である、と説かれました。
 更に、演奏会(6月9日の「山の音」会)のために作曲された「歎異抄」を自ら歌いつつ、歎異抄(親鸞)の示す人間像についても語られました。我々凡夫は罪悪深重煩悩熾盛で救われようがない、しかし、このことを真に自覚し念仏を唱えれば弥陀の本願によって必ず救われる、という教えは道元の万法に証せられると同じで、自分は悪人であるとの自覚(悪人正機)こそが悟りであると、浄土真宗と禅宗との極点での繋がりを示して頂きました。
 最後に島田さんの資料をきっかけに、最近の世情(詐欺で他人を騙す・暴力で老婦人を殺害する等々)に関して意見交流をしましたが、老師の説く禅仏教の人間観(自らの至らなさに気づくこと・自己中心ではなく他者へ感謝することなど)の素晴らしさが益々浮彫になるように思いました。



<<令和6年5月26日 定例禅会>> 参加者:6名 会場:円城寺

 草木の緑が萌え輝く穏やかな五月下旬でした。
 直日の「はがきを書くな坐禅せよ、掃除をするな坐禅せよ」(上田閑照の言葉)を受けて、桐山老師のご提唱が始まりました。はがきを書くな坐禅せよの意味は、筆を持って文字を書いてはいけないではなく、書くことそのものに成り切り、書くという意識さえなくなることであると、生活全般が禅的になるように丁寧に説いて下さいました。
 本題は、「相補性の原理」即ち相反する二つの依存関係としての縁起(相補性)について、詳細に語って頂きました。具体例として、縁起と空・色即是空と空即是色・未来と過去・因と果・善と悪・男と女・・・などを挙げ、これらはいずれも一方が他方を凌駕するようなことが起これば、両者ともに成り立たない。両者は表裏一体として在り、男だけで女のいない社会など成立しないなどと、身近な実例の説明でよく分かりました。
 表裏一体は禅の一元論だが、東洋思想にも精通していたニールス・ボーアは物理学者でありながら、量子論における矛盾(粒子性と波動性、場所とエネルギーなど)を、相反する二つの依存関係として捉え相補性の原理として打ち出すことが出来た。
 更に、この依存関係や相補性の原理を拡大すると、一即一切と一切即一(華厳経)にも繋がっていき、宇宙があるから私がいるということも分かるし、過去や未来という時間も分別意識で考えられた概念で、今ここしかないということも分かってくる。作り出された時間の概念は虚妄で、実際にはないのだから、縛りや拘束の苦から解放されて楽になる筈である、と相反するように見える全ての事柄・現象を一元論的に捉える禅の生き方の素晴らしさを語って頂きました。



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