<<令和5年10月1日 定例禅会>> 参加者:7名 会場:サンライフ長野

 10月に入り、暑さがようやく落ち着いてきました。ご提唱は、不二道場の現状や「ありがとう地蔵堂」での先祖供養の報告から始まりました。供養では桐山老師の息子さんのバイオリン演奏も行われ、物故者との思い出を蘇らせるような雰囲気に包まれました。また、90歳過ぎの長谷博友元京大教授夫妻もご参加され、教授の歌集の一部が披露されました。和歌は「犀川」・「紫陽花」・「原子物理学と和歌」などの小題で、教授の境涯等が格調たかく詠われていました。 この和歌から、無常観(紫陽花の色せそむるを見るさびし脚引きしろひて歩めるわれは)や唯識思想(犀川の岸に横ほる里山の木木色づくを窓ゆ見放みさけり)が汲み取れると、老師が会員にも紹介して下さいました。 ご提唱の本題は「慈悲の瞑想」でした。老師から本文で気に入ったところはないかとの問いに対し、会員からは「喜捨」や「自我」についての話が出されました。老師は「利害にとらわれず、自我意識を離れることの大切さ」や「物の正体に実体はなく関係性のみがある」等とまとめられました。この自由討論なようなご提唱では、先輩が後輩に体験を語る重みを感じました。先輩は自身の修行の成果を確認し、後輩は自身の修行の方向性や新たな気づき・疑問があったと思われるからです。(文責:峰村)



<<令和5年10月22日 定例禅会>> 参加者:8名 会場:円成寺

 小春日和の気持ちのよい日でした。ご提唱は、観音経にまつわるエピソードから始まり、本題は「慈悲の瞑想」の続きの第3章から最後まででした。各章に桐山老師が解説を加え、私たちの生き方を見つめ直す仕方で展開しました。例えば「全ての生命(いのち)が、自分の父母・兄弟である」では、私たちが人間だけに止まらず、かえるもオタマジャクシも自分の父母・兄弟と思えるかどうか、また「(あっちの)水と(こっちの)水が対立せずに一体になる」では、私たちがあの人ともこの人とも対立せずに生きられるかどうか、という具合です。中でも印象に残ったのは、「自我や見栄を張る苦しさ」に関するところで、高齢になると身心の衰えからどうしても苦しさや恥ずかしさから、遠慮したり引きこもったりしがちになるが、これは自我から出る誤りである、と話されたことです。老師の奥様が杖などに頼って歩くことに、引け目や恥ずかしさを感じておられることに対し、「よたよたと歩くことで、周りの人が待っていてくれる、相手に優しい心を出させる素晴らしい行為であるから、年老いても堂々と生きることが大事である」と話されたことは、誰もが迎える高齢の衰弱期に向けての、大いなる励ましの言葉となりました。誰の心にも慈悲の心があるのですが、自我や生活などに追われ、無我・慈悲への通路が塞がれがちです。塞がれた通路を広くして、希望や展望をもって歩んで欲しいとするのが、「慈悲の瞑想」の眼目であることを、老師はいつも身近な実例で説いて下さいます。
 11月3日の正受庵坐禅会の開催に向け、現状や準備を確認して散会しました。(文責:峰村)



<<令和5年11月19日 定例禅会>> 参加者:9名 会場:円成寺

 前夜の小雪が嘘のように晴れ上がった日でした。ご提唱は、正受庵での「量子論と禅」の語り尽くせなかった部分を補填する形で始まりました。
 先ずは、「これからは悟り大陸の探検が始まる」という岡田利次郎先生の指導により、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一(主客合一)」などが納得できるようになった、と見性という事の事実を示して頂きました。次に、齋藤さんの「畳の上にあるノート(客観)とこれを見る自分(主観)との関係」の質問に答えて、全ての物は自分の心の表われであること、自分の知識や経験を元にして見ているが、主観・客観という様な構想された形としては無存在であることを語られました。
 無心で観ると、ノートそのものが自分である(自他一如・物我一如)と感じられるようになる、と唯識や量子論を一層深めようとされました。量子論では上下・長短・明暗・男女・苦楽などの相対的縁起関係を「パラレルワールド」などと言いますが、量子力学の創始者ニールスボーアは相補性の原理と言っています。禅から観れば当たり前の事ですが、禅の側から主張する人が居ないのは残念です。
 光龍老師の「欧米の科学文明を本物にするのは禅の力である」という主張に呼応するように、ボーアは大阪帝国大学の講演で「西欧と東洋の全く異なった価値を結びつけようとして日本で達せられた成果に強く印象付けられた」と述べ、帰国後日本との出会いから相補性の原理の思索を一層深めたという事を紹介して頂きました。
 禅の哲学である一元論としての空観や唯識と、西欧科学文明の最先端である量子論との融合に向けた希望の言葉です。
 最後に、「山を見ることは自分の業(心・行為)を見ること」である、と本日の内容を唯識論的にまとめられ、業に触れている「慈悲の瞑想」(スマサーラ著)を全員で読誦して閉会となりました。



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