<<令和5年2月19日 定例禅会>> 参加者:7名 会場:円城寺

  「雨水」(二十四節気)の日らしい温かな午後でした。
 桐山老師のご提唱は、いつも私たちに寄り添ったお話で、禅で学んだことを日常生活に活かすように説かれます。例えば、目前のなすべき事に集中(「即今の自己」に成り切る)するには、テレビなどをつけながら他の仕事をしないこと、相手の心を動かし気持ちよく生活するためには、明るい声で快活に話す(「ありがとう禅」の感謝の心を伝える)ことなどを、ご自身の日々の実体験を交えながら、お話しするという具合です。
 桐山老師は、今回も「量子論と禅」のご提唱をなさいましたが、精度を高めようと、大学で素粒子を専門に学んだ牛山さんとのやり取りも、ご紹介して下さいました。桐山老師が禅の立場から、「物心一如」・「物となって考え、物となって行う」などを、量子論の「光の粒子性と波動性」という二つの矛盾する性質がはたらいていることを用いて伝えたり質問したりした事が、牛山さんの量子力学の深い見直しに繋がり、「いくら坐禅をしても自己を忘れられなかった理由がここにあった」とか「『波動』が量子力学と禅を結ぶキーワードになった」とかという言葉になっているように思われます。
 相互に理解を深め合い新しい可能性が開けたという意味で、エポックになったように思います。また、量子論は今も進化の途中だそうですが、禅からのアプローチが新たなステップになるかも知れません。逆に、量子論から禅へのアプローチによって、私たちの目から鱗が落ちるかも知れません。
 桐山老師のご提唱での視野の広さが、参加者の視野を大きく広げて下さっていることに改めて感謝です。       (文責:峰村)



<<令和5年3月5日 定例禅会>> 参加者:6名 会場:サンライフ長野

 桃の節句も過ぎ、春めいてきた午後でした。
 ご提唱は、桐山老師が建立された「ありがとう地蔵堂」の縁日に因んだお話が中心でした。昨年3月のお彼岸に仏像のお魂入れ法要を行い、今年3月のお彼岸は石灯篭設置等で周辺整備も済んだところでの縁日となりますが、この縁日開催に至るまでの経緯が大変教訓的でした。
 石灯籠建立のための奉納金の集め方等をめぐって、ご近所のこれまでの永年にわたる人間関係も再燃し困難な状況が生じたとの事です。人間関係の度合いが濃い地域ほど、良い面(助け合い)も悪い面(恨み・辛み)も大きいことは世の常ですが、桐山老師はこの修羅場を持前の菩薩行・利他行でまとめ上げて縁日開催にこぎつけられました。
 当日は、親族・宗派を超えて誰もが参加できるように広く呼びかけ、「般若心経」で先祖供養を行ったり、「ありがとう」の唱念(念仏)で、参列者の心の融和も図ったりして、衆生救済への誓願が込められた縁日になることと思われます。このお話から、私たちの心に潜む怨念や憎しみとどのように向き合い、対処すればよいかを如実に教えて頂きました。
 また、思いを念ずると現象化(思いが叶う)することについては、量子論の良さと限界を弁えつつ、「自未得度先度他」という慈悲心・菩提心を前提にして行うことの大切さを強調されました。



<<令和5年3月18日 定例禅会>> 参加者:6名 会場:円城寺

 春の彼岸入りの小雨の午後でした。桐山老師は、坐の真剣さを称賛しながら、「自分が本当の自分になっているか?」「常にその場その場に丁寧に心を置いて、なすべきことをやっているか?」という問いからご提唱に入りました。
 続けて坐禅と提唱の話に移りました。坐禅では数息観でも公案でもそのものに成り切ることの大切を話され、提唱では師家は「空」「無常」「さとり」などと話すが、これは言葉であって「空」「無常」「さとり」そのものではないから、言葉を覚えただけでは意味を成さない、故に話す師家の工夫と聴く学人の真剣さという、共に伴う責任の厳しさを説かれました。
 テキストは現成公案「うを水をゆくに、ゆけども水のきわなく・・・この行季したがいて現成公案す」の個所でした。魚と水とがピタッと一致して活きているように、私たちが目前の出来事に成り切って取り組むことが大切である。また、魚は水を究め尽くしてから泳いではいないように、物事をマスターしてから生きるのではなく、目前の物事と一致して、同事として生きていること自体が証であり修である。道元の修証一如とは、このように成り切って生きることである、というお話でした。
 茶礼に代わる一人一言では、各人から興味の湧いた量子論・コンテストに入選した写真・坐禅中に見えた畳の色・坐禅への決意や展望などが語られました。桐山老師からはそれぞれに適切なコメントがあり、また、参加者も久しぶりに胸中の思いを吐露しすっきりした気分で帰路につきました。



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