<<令和4年8月7日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:サンライフ長野

 禅味に村田修二さんが本の紹介をされていて大変参考になっています。
 長野禅会でも今までに、町田宗鳳著「ありがとう禅」、飯塚毅著「自己の探求」、アルボムッレ・スマナサーラ著「慈悲の瞑想」などを紹介し合い、回し読みして懇談していますが、いつも新しい 発見があります。
 ご提唱は現成公案の「仏道をならふといふは〜長長出ならしむ」の、主題のところでしたので、全員で何回も読誦して復習しました。ご提唱はその続きで「身心に法いまだ参飽せざるには〜本文人なり。」のところでした。自己を忘れて無我を捉えるとこ ろを、唯識の横山紘一先生は毎朝「自分のことなどどうでもいい!」と叫んで、一日の出発 されるということを紹介していただきました。   (文責 桐山)



<<令和4年8月21日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:サンライフ長野

 ご提唱は現成公案の「たきぎはひとなる〜春の夏となるといはぬなり」のところで、生死に関する大切なところで、そこから発展したお話がありました。
 九死に一生を得たような体験をすると、言わば「生きてるだけで丸儲け」、自分の命に何が起こっても平気というような境涯になるようです。
 美味い物もあまり食べたいと思わなくなり、今ある物で十分満足している。お金も程々あればいいが、うまいことやってお金がありすぎると大変です。天国まで持って行くわけにもいかず、財産争いになったらそれこそ骨 肉の争いになる。お金は有れば有るほど不幸になることが多い。
 皆さん、一度死んでみたら如何でしょうか、と。   (文責 桐山)



<<令和4年9月11日 定例禅会>> 参加者:5名 会場:サンライフ長野

 中秋の名月の翌日の坐禅会でした。
 ご提唱は、現成公案の「たきぎ灰となる、さらにかえりて薪となるべきにあらず・・・春の夏と言わぬなり」の個所でした。人の生死(生から死になるのではない事)について、道元はありのままの事実を春と夏の事例等で端的に書いているが、我々には考えにくい事である。その訳は、我々はありのままの事実を見ないで、概念(事実から離れた知識)で考えるからである。
 桐山老師は、この法理を具体的に噛み砕いて説いた後、知性ではなく感性で分かって欲しいとの悲願から読誦と質疑に切り替えました。読誦は心に染み入り、また「前後際断」に着眼した参加者との応答等もあり、生死の直観的捉え(生の時は生、死の時は死のみ)が深まったように感じられ奏功でした。
 11月の正受庵坐禅会の開催決定を承け、地元禅会として心用意を新にしました。



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