木々の緑も濃くなってきた穏やかな午後の坐禅会でした。
ご提唱は、桐山老師が幼少期に祖母に連れられて歩いた道中で石仏に念仏を唱えさせられたことや、父親がお盆にお棚や提灯を出して般若心経を唱えさせられたことが、現在の自分の宗教的な素地になっている、というお話から始まりました。
本題の現成公案は、「自己をはこびて・・・すみやかに本分人なり」の個所でしたが、ポイントを具体の姿から教示されましたので記します。先ずは、「迷い」だが、これは執着する心から起こる。駆け引き・利害関係・下心がはたらくからだが、この心は誰もが抱えていることで、これが本当に見えれば、自分はせこい人間だと分かり謙虚になれる。次は「迷中又迷の漢」だが、迷いや悟りは言葉での表現である。真実在は一つだから迷いとか悟りとかと言葉で分けて考えることはできない。従って迷いの中で平気で迷っている人を「迷中又迷の漢」という他はなく、これが悟りである。更に、真実在は一つとは、例えば、木々の緑に見とれているときや小鳥のきれいな歌声に聞きほれているときの様相である。色や音の中に自分が溶け込んでいるから一つ(色だけ・音だけ)である。こうなると、すべては自他一如で一つである。
道元の「聞くままに又心なき身にしあれば己なりけり軒の玉水」も、芭蕉の「よく見ればなずな花咲く垣根かな」も、山本老師の経机を叩く「トントントン」もこの自己一つを示している。現成公案を繰り返し読誦して感じ取って下さい、と締めくくられました。
|