<<令和4年4月24日 定例禅会>> 参加者:7名 会場:円成寺

 桃の花が散り始めた穏やかな午後に、円成寺で行いました。ご提唱は、桐山老師宅近くに完成した「ありがとう地蔵尊」への参拝者が多い、という話から始まりました。遠方からも見えた方々が仏像に祈りを捧げる姿に、日本人の信仰心を垣間見たということを口火に、話はウクライナ状勢へと展開し、これに呼応して会員の様々な思いや意見も飛び交いました。「最初はプーチンを殺したいという思いがあったが、次第に慈悲心を持ってほしいと願うようになり祈っている」・「両国・両陣営のトップ同士の話し合いが必要ではないか」・「プーチンは自分が殺されてもいいと思って攻撃をしているのではないか」・「世界中の人々はなぜウクライナを助けないのか」・「80年前の日本の満州侵略と今のロシアのウクライナ侵略とが重なって見える」等々です。桐山老師は、世界で今起きているこのように悲惨な状況こそ「現成公案」の「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」の具体的で現実的な姿であるとし、目前の焦眉の課題と法の核心を説く提唱との密接かつ動的関連を、タイミングよく示されました。同時に、世界平和に向けて、インドの非同盟やガンジーの非暴力をどのように考えるか、という根源的な提案を、坐禅を修する会員への宿題として課されました。                                                (文責 峰村)



<<令和4年5月8日 定例禅会>> 参加者:3名 会場:サンライフ長野

 5月の連休最終日の開催で参加者は限られていましたが、少人数なりのよさと充実感がありました。ご提唱は、いつも参加者の顔ぶれを見て行われますが、今回はこの特色が一層顕著でしたので、概略を記します。
 我々の日常では、大部分の物事を分かったつもりで生きているが、一歩踏み込むと途端にあやふやになる。例えば、一枚の紙を半分にちぎり、その片方をまた半分にちぎる。これを繰り返すと小さなゴミのようになり、更に続けると微細な繊維のようになるが、この繊維一本を紙と言えるかどうか。どこまでが紙で、どこからが繊維なのかはっきりとは分からない。このように見ると、紙には実体がなく、あるのは紙という言葉や概念的知識ということになる。つまり、紙は何も無いのではないが、様々なものの関係性で成立・現成していて、このことを「空」と言い「縁起」と言うのである。同様なことは、私という名の自分についても言えて、「空」なる自分(実体はなく、関係性という縁起で現成している)を徹見することが禅である、と言う具合です。
 以上を踏まえて現成公案に入りましたので、ここでの「諸仏の仏法なる時節」は日常の自分の様相を、「万法ともに我にあらざる時節」は空なる自分の様相であることが、明瞭になりました。続けて「自己をはこびて万法を」の自己は自我で生きる自分のことだから、物事に迷うということが分かり、「万法すすみて自己を」の自己は空なる自分だから、物事を悟るということも腑に落ち、すっきりとした気分で帰路につきました。



<<令和4年5月29日 定例禅会>> 参加者:6名 会場:円成寺

 五月晴れの爽やかな午後に、円成寺で行いました。ご提唱は、会場の本堂前で団扇を使いながら皆さんの到着を待っていた斉藤さんの姿を見た桐山老師が、「麻谷山斉藤禅師、扇を使う」と言うところから始まりました。現成公案の一節を目前の会員の姿に重ねて言い換えたもので、テキストと日常との結びつきを提示する鮮やか手法でした。「論語読みの論語知らず」を打破するかのようなはたらきを示した上で、現成公案の前回の続きに入りました。「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」は、自我にとらわれた衆生の姿そのもので、行き違いや対立ばかりである。「万法すすみて自己を修証するは悟りなり」は、自分を超えた大いなるはたらきに気づくことを教えている。
  我々は迷いと悟りとを対立的に捉えているが、実は迷いと悟りとは表裏一体である。これに気づくことが悟りであるが、気づくためには、迷いはどこから出てくるのか、その正体を見極めることである。そのためには、自らの愚かさを自覚することが大事だが、自我から発生する自己顕示欲があるのでなかなか難しい。坐禅をしたり、テキストを繰り返し読誦したりする三昧を深めることによって、自己の本性・正体に到達していくことができる。すると、平気で迷えるようになるが、これが「迷中又迷の漢」であり悟りである、という展開でした。愚直に実践しようと思いました。
 その後、正受庵での二回の坐禅会(6月19日は長野禅会主催・11月3日は釈迦牟尼会主催)について、コロナ禍対策も含めた原案を検討・確認して解散しました。



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