<<平成26年10月定例禅会>> 参加者:10名 会場:サンライフ長野

 ★例会レポート
 いつもの様に三炷の坐禅の後、桐山主宰から講話をして頂きました。今回は、8・9月に行った坐禅基礎講座に参加された方々のうち、所さんと中村さんにも出席して頂き、新しい息吹が吹きこまれたよい坐禅会となりました。また、山田さんからは、「仏道を成就し大悟した人が亡くなった後、生まれ変わったときどうなるのか」という質問が出されました。多くの人の関心事でもありますので、桐山主宰のお答えを中心に記します。

 「生まれ変わる」という輪廻思想は、仏教以前の時代からインドで発展した考えです。人生は苦であるから、苦しみのある人間には二度と生まれ変わらないことを理想として修行をします。身分差別の厳しいカースト制度の下で、前世の行為の結果が現世であり、現世の業によって来世が定まると考えられていましたから、輪廻から解脱したいと思うのは、自然の情だったでしょう。従って、輪廻を解脱して悟った人は、苦の人生から逃れられるので、生まれ変わることはないことになります。

 ところで、釈尊から出発する仏教は、人生の苦(生老病死の四苦・八苦)を解決することが最大の目標です。人生の苦は、自我を立て物事を二元的にみるところから始まります。自己があると他と対立したり葛藤したりするから苦しみが出るのです。苦しみの元となる自我を滅し、私心をなくし無心になることで、苦しみがなくなっていくのです。そのためには坐禅をすることが一番です。坐禅は自我を滅し、私心のない無心を目指すものだからです。お釈迦様も死後のことは、無記としてコメントしていません。曖昧なことは否定もしないが説明もしないのです。更に言えば、死後の世界は、人間の想像の世界であり、「死後どうなるか」という問いは、生と死を二元的にみる不安や怖さから出るのです。

 坐禅をして自我を滅していけば、物事を一元的に捉えられるようになるので、生と死とを対極にある二つのものから、生死一如として一つのものとして考えられるようになっていきます。不安で怖いという死の捉え方や、生まれ変わるという考え方自体が変化していくのです。坐禅を続けてみて下さい。そうすれば、正しい考えが得られます。

 ★茶礼会
 今回、初参加の所さんと中村さんの自己紹介がありました。続いて、桐山主宰と山田さんの問答を受け、人は死んだらどこへいくのか、について様々な意見が出されました。また、無心とは私心がないことであるとか、赤ちゃんは無心であるが、いつごろから無心でなくなるのか、それは言葉を覚えたときからなのだろか、とかと話が盛り上がりました。   (文責 鈴木)




<<平成26年11月定例禅会:無得龍廣老師出講>>参加者:11名 会場:サンライフ長野

 ★例会レポート
 山本老師ご出席の下、三炷の坐禅を行いました。今回は、3人の独参の後、前回に続き、「臨済録」のご提唱をして頂きました。テキストは、<十六>「問、如何是四種無相境。師云、(中略)此是観音三昧法。互為主伴、出則一時出一即三、三即一。如是解得、始好看教。」までの箇所です。ご提唱の概略は次のようなものでした。なお、テキストの解説部分は割愛させて頂きます。

 イスラム教は、偶像崇拝ではなく、偶像を破壊している。仏がいない時は、仏と一つとなる。つまり、垣根がない。自己は合掌すれば一つになり、仏と一つになる。拝む対象がなければ、なかなか拝めない。
 いのちは一つであり、「コーン(机を叩く)」という音と自分が一つになれば、そこから全てのものが生まれる。数息観で「ひとつ」と念じた時に、心が働いている。コンピューターはデータは出すが、人間のように、心そのものの働きは、コンピューターには分からない。人間の心に愛情があることは、よいことである。愛情と愛着とは異なるものである。学業で優秀な人が、人を殺めてしまう。逆境を生かし転ずることが大事だ。
 仏の生を知らないことは、心が貧しいことだ。仏の生である無心の生の力は、最初から自分自身に具わっている。坐禅によって進歩してだんだんと自分に価値がついてくるのではなく、一心に坐ると真の価値が最初から自分に具わっているとことに目覚めていくだけのことである。

 ★茶礼と夕食会
 老師ご出席の下で行われました。みんな無我夢中で食していましたが、この状態が「無心」なのではないかと思われました。我々は、時間がないと焦ったり時間に使われたりして自己を見失いがちになりますが、自由自在とは、その逆に、自分の方から主体的に時間を使っていくことではないか、と思いました。

 その後、老師を囲んでの夕食会となりました。若い人も出席し、自由な意見が交わされました。その中で、名張禅会や他の地区禅会と合同での坐禅会などをやったらどうか等々、夢のある楽しい夕食会になりました。   (文責 鈴木)




<<平成27年1月定例禅会>> 参加者:10名 会場:サンライフ長野

 ★例会レポート
 新年初坐禅会、「明けましておめでとうございます」という言葉が清々しく感じられました。桐山主宰からのご挨拶と講話があり、茶礼では長野禅会の紹介を禅味に掲載していただくということで、いままでの禅会の様子や今後に寄せる思い等々を語っていいただきました。峰村さんがこれを元にして執筆し、禅味の3、4月号に掲載していただくことになっていますので、ここでは割愛させて ただきます。

 桐山主宰講話の概要は、以下のとおりです。
 この新年初坐禅会が開催されるまでに、いったいどれだけのこと、もの、人が密接に、微妙に、劇的に関わり合ってきたことでしょう。まして、私がこの世に生を受け、ここに生きていること等は、どんな経緯や条件、大勢の人々の働きがあったことかと思うと、不可思議としか言いようがありません。全ては人間の思考や学問をはるかに超出しており、全貌は殆ど分からない見えない世界です。ところが見えているところだけを見て、全ては分かってしまっていると思い込み、何の疑いもなく、不可思議な世界を不可思議と捉えることができなくなっていることが問題です。そうして、すべての問題は想定外の出来事として、遠くへ押しやってしまい、主体的にとらえようとしない生き方が蔓延しています。

 無限の不可思議なる世界を生き続けている状態を、「縁起」と言い、「空」と言い、あるときは「般若の智慧」と言い、さらに「無常」、「中道」、「無碍光如来」、「佛」、「即今の自己」等々と、あらゆる絶妙な言葉を費やしても、この有り難く、美しく、無限に調和する世界を表現し尽くすことはできない。しかし、私達は摩訶不可思議なる、この事態に気付くことによって、人間としての真の謙虚さと主体性を獲得することができる。
 (文責 鈴木)


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