<<平成26年5月定例禅会>> 参加者:9名 会場:サンライフ長野

 ★例会レポート
 五月晴れの気持ちの良い日に、いつもの通り三炷の坐禅を行いました。坐禅の後、桐山主宰から「今日は観音経を唱えることにしましょう」と提案がありました。以下は、読誦の前の桐山主宰のお話です。・・・お経は、何百回と読誦すれば、おのずと意味も解ってきます。私たちが毎回唱えている白隠の坐禅和讃も、仏教の神髄を言っています。何回も唱えれば、その都度、新しい発見があります。ただ、慣れ親しむということはよいことなのですが、反面いけないこともあります。慣れてくると新しい感覚が失われ、単なる機械的なお題目になってしまうことがあるからです。初めて坐禅をしたときの新鮮な気持ちや、初めてお経を読んだときの緊張感を思い出しながら始めましょう、と注意があった後、観音経の読誦が始まりました。
 偈文のところからです。・・・世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音・・・  要所要所で、難しい意味の解説もして頂きながら、読誦を終えました。観音経が一層身近に感じられるように思いました。
 ★茶礼会
 二人の方からお菓子等の差し入れがあり、楽しい茶礼となりました。話題の一部をご紹介します。@アメリカ大リーグのダルビッシュ投手が、ノーヒットノーランのチャンスを前回に続いて今回も逃してしまったことは、後一人を打ち取れば達成できると思った瞬間に、「しめた」というような私心が働いてしまったのではないか。しかし、こういうチャンスを2回も持ったということは奇跡に近いことではないか。A目標を決め、根性で諦めず、集中して努力していくのも私たちの意志であり私心の働きであるが、私たち人間が自分の力でできることは、ほんのわずかで限定されており、残りの99.9パーセントは自分の力ではどうにもならないことだと思われる。B自分の力ではどうにもならないことが多いが、それを救ってくれるのが観音様の慈悲の力や文殊様の智慧の力であると、お釈迦様は教えてくれている。C阿弥陀様も必ず救ってくれると言っているのだから、それを信じ安心して、我々は日々、お経を読誦し、坐禅に精進しなければならない。   (文責 鈴木)




<<平成26年6月定例禅会:無得龍廣老師出講>>参加者:10名 会場:サンライフ長野

 ★例会レポート
 先月、ポーランドへ接心に行かれた山本老師のご出席の下、いつも通り三炷の坐禅を行いました。以下は、老師のお話の概略ですが、初めにポーランドでの様子や所感、次いで「臨済録」のご提唱です。

@ポーランドでの様子  去年と同じにポーランドに行って来ました。オランダからもお一人参加していました。法純さん他、皆さん熱心に朝晩約1時間ずつの坐禅を行いました。公案は用いないで、自分で考えるということにしました。今回は2回目なので、参加者の様子が大体分かっていましたので、私も指導のポイントを絞れてよかったです。向こうの人にとっても満足のいく接心であったと思われます。
 接心が終了してから、ポーランドの教会や城などを見学して来ましたが、城は素晴らしく、教会等もレベルが高いと感じました。ある美術館では、案内人がクロアチアから来た人でしたが、私が日本人だと分かると好意を寄せてくれ、あちらの人に日本人は好かれていると思いました。また、来年も行くことになっています。

A「臨済録」のご提唱  ご提唱は、[15]「問、如何是真正見解。師云・・・、入染入浄、入諸仏国土・・・道流、今時且要識取四種無相境、免被境擺撲。」の箇所でした。
 テキストの要旨は、「この世のすべてのものは、仮の姿であり、実体はない。だから、外境に振り回されてはならない」ということです。そのためには、仏の命に目覚めること、無心に生きる事、無心というのは何もないという事ではなく、私心がないということです。このことは、日本人にもヨーロッパ人にも通じることです。

 ★茶礼・夕食会
 茶礼では、何人もの人から差し入れがあり、夕食に近い分量があり、おいしく頂きました。その上、更に夕食会でも美味しく頂き、満腹感でいっぱいでした。
 老師からは、ポーランドのお話しをたっぷりとお聞きすることができました。坐禅を通して、ヨーロッパと日本との交流ができれば素晴らしいね、というような夢のある話も持ち上がり、心身ともに満たされた定例禅会となりました。  (文責 鈴木)




<<平成26年7月定例禅会>> 参加者:10名 会場:サンライフ長野

 ★例会レポート
 南信から遠路、山田さんの初参加がありました。当日は梅雨の合間の蒸し暑い日でしたが、予定通り三炷の坐禅を行い、その後に桐山主宰から講話をして頂きました。その概略を記します。

 今まで何回か縁起や空についてお話した。その都度これで完結と思うが、しばらくすると全く新しい視点が見えてきて、再々度「空」を元にしてお話しするということになる。これは、今までの経験や、その後の坐禅や行動によって、一度とらえたものが更に別の疑問や視点が現れてきたのです。禅による「即今の自己」とは、自己の経験や縁によって、ちょうどその時に顕現してくる思いや行動です。縁起の頂点となっていて、その状態が「空」ということになるのではないかと思います。

 本日、初めて参加された明法さんは、お名前が法を明らめるということで、まさに私たちの禅会の目的です。この宇宙は法(縁起)の現れである。つまり、生きた生命そのものの現れだ。この畳もテーブルも、満面に笑みを浮かべた花が咲いている。これで一切の悩みも消えたと思うくらい感動する。しかし暫くすると、この世は地獄だと落ち込んで、苦しみのどん底であったりする。これはいったいどういうわけでしょうか。
 お釈迦様も、若い頃は贅沢もしたり、失敗もしたりしたと思う。その後、悟るが、悟ったからといって人間としての執着心、煩悩は消えることはないのではないか。あまりにも素晴らしい世界に気がついたので、煩悩が消えたというより制御できたというべきではないか。

 仏教の流れは、縁起→空→唯識と続くが、唯識思想は、全ては心の表れであるという。それによると、我々の心の働きは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8識から成り、この第1の眼識によって花がきれいに見えたり、第2の耳識によって妙なる音が聞こえたりする。第7の末那識以下は、無意識(潜在意識)の領域であり、自我意識を成立させて煩悩や執着心の元になっている。8番目の阿頼耶識は、蔵識とか種子識とかと言われるが、ここには今までの全ての経験が蓄積し記録されている。それどころか、自分が生まれる以前の、無始以来の生きものとしての執着心などのすべての経験が蓄積されていると言う。従って、人間は条件さえ整えば、犬にも蛇にもなるし、良いことも悪いこともする。しかし、これも全て仏の命の働きだということだ。
 例えば、1回万引きすると、その悪い経験が無意識の世界に蓄えられる。もう万引きはしないと意識しても、後になって顕在化してきて、今度は2回・3回と簡単に万引きを繰り返すようになるが、これは正しく仏性が働いているからである。これが心の縁起(唯識縁起)である。だから、坐禅によって阿頼耶識を浄化して、良い種子で埋め尽くしていくことが、仏教の趣旨に適うことになる。これは、華厳経などにも説かれているので、できれば勉強して頂きたい。また、坐禅を通してご自身の経験として体得して頂きたい。講話の内容が、唯識論にも及び、また一歩深まったとともに課題も頂きました。

 ★茶礼会 
 新人の山田様は、坐禅の基本を身につけたいと参加され、数息観のコツを覚えられたようです。講話に関して、良い種子を蒔いていく大切さが確認されました。
  (文責 鈴木)


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