<<平成25年11月定例禅会:無得龍廣老師出講>>>参加者:9名 会場:サンライフ長野
 ★例会レポート
 日程の都合上、二炷の坐禅の後、老師のご提唱を頂きました。前回の続きの臨済録で、「師示衆云、道流、仏法無用功処。・・・中略・・・生死海裏浮沈。」のところでした。概要を記します。真の仏法とは元からのいのちに目覚めること、仏法は知識を増やすことではないから、万巻の書を読んでもだめ。平凡な日常生活の一つ一つ(食べること、着ること等々)に法理・真理があるのだから、その一つ一つを疎かにせずにきちんと行うことが大事である。文中の「平常無事」の無は、私がないということ。私がなければ、縛られないから、悩みも苦しさもない。本当の仏は各自に具わっていて、全部足りているのだから、修行(坐禅)によって、そのことに目覚めていくことが修行者の道である。ここでも、仏のいのちに目覚めること、私を無にすることの大切さが説かれました。
 ★茶礼会と感謝のご慰労会
 今回の禅会では、老師の奥様にもご参加頂き、女性が5人並んで座っているお姿は壮観でした。そのこともあって、茶礼会も普段にも増して華やかで賑やかでした。老師の奥様から戴いたお菓子にも、桐山主宰の奥様が用意して下さったお菓子にも共に梅が入っていて、その効用等について、お茶を飲みながら、ひとしきり話題になりました。
 永年に亘り、ご指導を頂いている老師ご夫妻に志賀高原の麓の渋温泉でお泊り戴き、お疲れを癒して頂きました。有志で行った感謝の宴会でしたが、山本老師の美声での歌声を初めてお聞かせ頂き、盛り上がった楽しいひと時になりました。 (鈴木記)


<<平成25年12月定例禅会>> 参加者:6名 会場:サンライフ長野
 ★例会レポート
 小春日和りの1日、三炷の坐禅を行いました。その後、峰村さんに講話をしてもらいました。その概要を記します。
 講話の題は「無心(私心なし)」ということでしたが、内容は「花」の三つの図を無心と関連つけての話でした。一つ目の花の図は、十牛図の第9の花で、これはその前の第8の円相図を経たもので、無心となった自己が花として表れているものでした。坐禅の修行がかなり進んだ段階での花(自己ならざる自己=無心)ということでした。二つ目の花は、仏教詩人相田みつをの「ただ」と題する詩に書かれた花でした。花はただ咲き、ただ散っていくというところが、人間のはからいを超えているという意味で、無心を表している、ということでした。三つ目の花は、道元の「現成公案」における「花は愛惜に散る」の花でした。この花は、法理を圧倒する事実としての花で、人間がどんなに惜しんでもその思いを覆い隠すようにして自然体で散っていく花ということです。「散る」というのは、生老病死という四苦を代表しますが、それを乗り越えていくのが、花と一如となった無心なる私であり、無心を旨とする坐禅のよさもここにある、というような事でした。
 この厳とした花の前では、どんな思いも打ち砕かれて無心になる外はない、というような事だったのでしょうか。そんな気がしないでもありませんが、正直なところ、はっきりとは分かりませんでした。
 ★茶礼会
 茶礼会では、講話の意味を、参加者がそれぞれの立場で深めようと、意見を出し合いました。中でも桐山主宰から、道元の「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」というのは、人間のもっている普通の感情で、喜怒哀楽をそのまま正直に表明している。親鸞の「悪人正機説」にも比肩できる内容の深さをもっている点で、道元の深い人間理解を踏まえた「愛惜にちる花、棄嫌におふる草」を書いた「現成公案」はやっぱりすごい、というご指摘は、さすがでした。 (鈴木記)


<<平成26年1月定例禅会>> 参加者:8名 会場:サンライフ長野
 ★例会レポート
 新春の松の内の正月5日、改まった雰囲気の中で三炷の坐禅を行い、その後、桐山主宰に「縁起と空」についての講話をしてもらいました。その内容の概略を記します
 仏教の根本は、病や死の苦しみ等からどう遁れどう生きるかだが、そのためには即今の自分の本性を、禅を通して体得することだ。お釈迦様は自分が発見したこの法は、あまりにも深遠で説くことはできないと、一時断念したが、帝釈天の勧めで勇気を出して説いたということになっている。世界の仕組みを説く四諦の教え(苦集滅道)は、その苦心の表れであるが、その背景を貫いている「縁起と空」について語りたい。
 縁起とは何か。全ての事柄は、原因があって結果があることで成立している。例えば、「苦しみ」という結果があるとき、その苦しみの元になっている原因1が必ずある。その原因1を辿ると、またその元の別の原因2に辿り着く。つまり、ものごとは、ある原因によって結果が生み出されたものとしてあり、それが累々とつながっている。このように、ものごとは、原因と結果という関係性によって生じていて、事柄自体に実体はない。この関係性により生起することを縁起という。
 世界は全て縁起によって成立しているといえる。過去・現在・未来という時間をみても、過去という事実をそのまま現在に呼び戻せないし、未来という結果も現在に現すことはできない。時間は、瞬間ごとに現れる「今」「今」「今」の連続によって、つまり縁起によって成立しているといえる。同様に空間をみても、私がここに居られるのは、畳があるからであり、畳があるのは床があるからであり、床があるのは土台があり大地があるからである、という具合に空間も関係性という縁起において成立している。従って時間空間を含むあらゆる物、事柄は自性(独自性)が無く、関係性(縁起)のみが働いて生滅している。言いかえれば、関係性(縁起)を取り去ってしまったら、すべての物、事象は消えて無くなる。「縁起せるもの、それを我々は「空」と呼ぶ」と、竜樹は中論の中で述べている。
 関係性で成り立っている縁起の法、「空」が納得できれば、あらゆる苦しみは、我を立てることから出る妄想(無明)であることが分かる。我の本性が無であると納得できれば、全ては縁起によって完全無欠に調和していることが分かり、様々な悩みから解放される。
 ★茶礼会
 茶礼会は、講話での「縁起」の話は、物事が関係し合っているという点では分かるが、「空」になると分からない、というところから始まりました。それに対して、多くの意見がでました。「空」は「無」と言ってもよいのではないか。「無」は老師が言われる「無心」につながり、「私心がない」ということである。「私心がない」ということは、主客の境がなくなることではないか、等々と。更に追究したいと思いました。 (鈴木記)

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