<<平成25年8月定例禅会>>参加者:8名 会場:サンライフ長野
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猛暑の中でしたが、冷房の効いた快適な会場で、いつものように三炷の坐禅と茶礼を行いました。茶礼では、先月13日に開催された「山の音」会(信州の作曲者で作る会)作品発表会で演奏された、桐山主宰作曲の「歎異抄―三部作」他が収録されたCDが会員に寄贈され、それに関してお話をして頂きました。
桐山主宰から「歎異抄」の作曲に関わって、様々な想いを語って頂きました。
色々の聖典等を読む中で、「全ての衆生が救われない限り自分の救いはない」という法蔵菩薩(後に阿弥陀仏となる)の誓願を知りました。それは、全ての人や物は縁に随って、今、当然そのように成るべくして成っているという「縁起観」や「空」の教えが、阿弥陀仏の誓願という形に展開されている浄土思想の素晴らしさに気づき、衝撃を受けたと話されました。禅(自力)の対極にあると思っていた浄土思想(他力)の教えが、根本に於いて全く禅と同じであるということです。
この教えは、親鸞の「悪人正機説」により、歎異抄の中でダイナミックに説かれているので、何とかして作曲したいとの思いを強くした、とも語られました。
浄土思想で、弥陀を信じ「南無阿弥陀仏」と無心になって唱えることで、全ての人が摂取され救われるということは、西山禾山老師の般若三昧と同じではないか。つまり、我々の誰もが自身にそなわっている摩訶般若波羅密多に帰依し、「南無甚深般若波羅密多」と唱念することで無心になり、解放され救われるということと同じであること。更に我々の計らいに関わりなく、弥陀の誓願によって、また別の表現である「空」「縁起」の法によって、どんな人でも必ず救われる、または既に救われていること、等どこをとっても禅と浄土の思想は同じであることを熱っぽく語って頂きました。
桐山主宰は、禅と浄土の思想が、実践的にも思想的にも全く同じであるという気づきを、ライフワークである作曲を通して悪戦苦闘しながら体得し確信され、惜しむことなく我々に披瀝して下さいました。感謝しつつ我々も坐禅に励みながら、各自それぞれの分野で何かを掴みたいと願いました。 (鈴木記)
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