<<平成25年5月定例禅会>>参加者:9名 会場:サンライフ長野
 ようやく5月らしく温かくなった会場で、5月定例坐禅会を行いました。小林さんの友人である宮田さんが初めて参加されたので、坐禅の後の茶礼では、全員が自己紹介をおこないました。
 斉藤さんからは、「坐禅の数息観で数を数えて集中するのと、日常で、例えば大好きなプラモデルを作るのに夢中になっているのと、同じなのか違うのか」という質問がだされました。それに対して、集中して無心になっているという点では同じだが、集中する動機と方向は違うのではないか、というような意見もだされました。関連して、般若心経をひたすら唱えることが出来れば、書かれている意味は分からなくても無心になっているので、そういう場に入って訓練していくことが大事だという意見もだされました。好き嫌いに関係なく、何事に対しても無心になって集中できれば、それはもう菩薩であると思われます・・・。
 桐山主宰が山本老師から授かった印可証明が披露されました。「坐水月道場 修空華万行」と雄渾な筆跡で大書されていました。老師の大心を知る由もない我々は、書かれている文字だけを頼りに、「我々の生きて働くところは、全て何時でも何処でも道場であると心得なさい、日常で起こる全ての事々をあるがままに平然と執り行い、それが済んだら行ったという跡も残さないようにしなさい」などと自分に引き寄せて勝手に解釈しました。
 桐山主宰ご自身は、「もっともっと坐禅をせよ、ということだよ」と謙遜しつつ、更なる菩薩行への精進の決意を示しておられました。
 続いて、東日本大震災の後に、奈良の薬師寺の僧侶が、自分たちにできることはないかと被災地に入ったことが、「仏教に何ができるか」と題してテレビで放映されたことも、話題になりました。
 被災直後の惨状を目の当たりにした僧侶は、足がすくんで動けませんでした。今までやってきた説法も、被災者の前では話せるものではないと感じました。しかしながら、2年間にわたって被災地に通い被災者に接して般若心経の写経などをしていくうちに、僧侶は次第に変わってきました。僧侶の求める悟りは、どこか遠いところにあるのではなく、目の前で苦しむ人々と正対するところにある、ということが実感できたのです。
 自分の全身全霊で被災者と向かい合い捧げる「覚悟ができた」というのです。「自分には力はないが、お経には力があると分かった」というのです。我々も、この僧侶のように、坐禅や読経に対して「覚悟ができた」と言いたいものです。
 5月12日は「母の日」・「看護の日」という記念日でしたが、長野禅会にとっても参加者数が、男女で逆転し女性の方が多くなった記念日となりました。   (鈴木記)


<<平成25年6月定例禅会:無得龍廣老師出講>>参加者:8名 会場:サンライフ長野
 ★例会レポート
 坐禅の後、老師による臨済録のご提唱がありました。その箇所は前回3月の続きで、「道流、心法無形、通貫十方。・・・中略・・・索飯銭有日在。」まででしたが、内容は割愛します。
 老師は、5月に遠くポーランドとオランダに行かれて接心や法話等を行い、大役を果たされましたが、提唱の中でも、一部をお話しして頂きました。
 その概要は、「ポーランドでは13〜14世紀頃の城で、加単者24名位で接心を行った。老師の話に感動し、来年も来て下さいと招待された。日本から出家僧は来て話したことはあるが、在家では山本老師が初めてである。オランダでは約40人位が坐れる所で法話と質疑応答をおこなった。はるばる日本から来た老師ということで、参加者が老師の足元に舞を舞うような形で礼拝してくれたので、老師は恐縮して、同様に礼拝を行った。惜しみながら、別れた。老師も外国の皆様のお役に立てたことを嬉しく思った。」等です。
 提唱の本題では、私たちがいつも唱えている「南無甚深般若波羅密多」に関連して、本来の生き方についてお話し頂きました。「南無甚深」とは、私たちの努力に関係なく、元から私たちの心に働いている仏の命・智慧です。だから、物を見ようと努力しなくても見えるし、聞こうと思わなくても聞こえます。仏の命が誰にでも一つの心として平等に働いているからです。仏とは、一切の執着・束縛を離れたものです。そうなるためには、自分自身の本性に目覚めることが大事です。そうすると、一切のものと関わりながら、そのまんまで一切の囚われから離れ、自在になれます。
 ★茶礼
 参加者から、老師にポーランドやオランダでのお話しをして欲しいと、要望が出されました。老師からは、ポーランドやオランダの方々が話に感動してくれたこと、来年また招待されたこと、女性にもてたことなどのエピソードが語られ、会場は笑いに包まれ、和やかで楽しい一時になりました。
 ★夕食会
老師を囲んで、夕食会を行いました。桐山主宰から、「歎異抄」「弥陀の誓願」等の曲が完成し、7月に発表会を実施する旨のお話がありました。主宰の奥様からは、「作曲に、大分苦しんでいた」との裏話も聞かれましたが、主宰の作曲する(宗教)曲は、禅を背景にもつ人ならではの大迫力があり他に抜きんでていることが、過去の発表からも予想されます。曲の要となる「悪人正機」も含まれているので、発表が今から楽しみです。   (鈴木記)


<<平成25年7月定例禅会>> 参加者:8名 会場:サンライフ長野
 ★例会レポート
 坐禅三炷の後、いつものように茶礼を行いました。今回は、禅会前日の13日に開催された「山の音」会(信州の作曲者で作る会)作品発表会で演奏された、桐山主宰作曲の「歎異抄―3部作」についての感想が中心的な話題でした。
 先ず、桐山主宰から「歎異抄」についての想いを語って頂きました。内容は、作曲しようと思ったという動機や、「歎異」に由来する親鸞の信仰心など、興味深いものでした。その中でも、臨済禅師の「但能く縁に随って旧業を消し、任運に衣装を着けて、行かんと要すれば行き、坐せんと要すれば坐す」を援用し、そのものになりきって、その時々に必要なことを行じる、という禅的な生き方を作曲で実践した、とのお話は示唆に富んでいました。具体的には、作曲は参禅における公案への取り組みと同じで、作曲のことだけを懸命にずっと考え続けていると、見解にあたる「音」がひとりでに浮かんでくる、おのずから「メロディー」が口をついて出てくる、自分はただその音を五線の上に鉛筆で書いていくだけ、という事でした。
 他の追随を許さない途方もない名曲が生まれ出た秘話をお聞きして、一同ただ只感服し、また、発表会でのピアノと声楽の余韻を思い出しながら、その素晴らしさに再度納得したのでした。
 次に、参加者が感想を述べました。@ピアノとバリトンが互いの邪魔をしないで良い、A長野で作曲している人がいることは素晴らしい、B歎異抄に曲をつけるなんて空前絶後である、本当に苦労が報われたと思う、Cバリトンの歌手がすごい、何十人もの僧侶が読経したのと同じ感じ、など作曲者・演奏者・声楽家への絶賛の声が続きました。
 ★夕食会
 桐山主宰ご夫妻を囲み、有志で夕食会を行いました。先月6月に桐山主宰から、「歎異抄」より「1.弥陀の誓願」「2.十余箇国のさかひをこえて」「3.善人なおもて往生をとぐ」の3部作の作曲が完成し、今月7月13日にその発表会を開催する旨のお話があり、成功裏に終了しました。
 従って、この夕食会は、作曲の完成と発表会の成功を祝ってのご慰労会的な意味合いがあるのですが、桐山主宰ご夫妻には、永年に亘って長野禅会を牽引・ご指導して頂いてもいますので、その御礼も兼ねていました。
 この夕食会での懇談によって、桐山主宰の奥様の内助の功が一層鮮明になったり、桐山主宰の禅会にかける熱い想いがひしひしと伝わってきたりしました。桐山主宰の想いを我々自身の想いにすべく、更に頑張ろうと決意を新たにしました。(鈴木記)

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