<<平成25年2月定例禅会>>参加者:8名 会場:サンライフ長野
 ★例会レポート
 正法眼蔵第一現成公按を、桐山主宰と始めから皆で読誦して、今回の下記の範囲の解説を頂いた。
 「しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり。・・・中略・・・証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ可必なり。」
 人がもし仏道を修行するときは、一つの法を会得することにより、全ての法に通じ、一つの行に会うことにより、全ての行を修める(一事が万事ということか)。究極の覚りは必ず現れるのであるが、仏法が普遍の究極に存在している真実は必ずしも顕在化しないし、見てとれるように現実化することは、必ずしもないのである。
 ★茶礼会
 仏法を極めるという事は、わからないという事がわかる、ということかもしれない。
 ここからは、私個人の見解であるが、現成公按の全体を通して、前半は道元34歳の力強さと言葉に切れがあり、特に後の方は、重要な事が繰り返し強調されているように思われる。公按の最後に、「これは天福元年(1233年)中秋のころ、かきて鎮西の俗弟子揚光秀にあたふ。建長壬子(1252年 道元入寂の前年)拾勒。」とあり、以上のことから拾勒(収録)したのは入寂の前年なので、公按の後半部分、「うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。」から後は少し文章に手を加えたのではないかと思われる。年寄りの少しくどくなるところが、気がつくのである。
 龍廣老師の臨済録を受けても、桐山主宰の現成公按を受けても、「人間、わかったなんて思うな」ということが根本にあるように思われてならない。もっと言うと、日本の歴史を動かした人物、例えば勝海舟や福沢諭吉などに、この正法眼蔵第一現成公按や鎮州臨済恵照禅師語録(三聖住嗣法小師恵然集)がいかに影響を与えたか、におってくるのである。
 あらためて、この古典をひもといてくれた龍廣老師と桐山主宰に感謝するのみである。             (鈴木記)


<<平成25年3月定例禅会:無得龍廣老師出講>>参加者:10名 会場:サンライフ長野
 ★例会レポート
 山本老師をお迎えして3月定例坐禅会を行った。坐禅の後のご提唱は、前回に引き続き、臨済録で、箇所は「大徳、三界無安、猶如火宅、・・・中略・・・無不甚深、無不解脱。」であった。初めての参加者もいたので、老師は、先ず臨済録の概要を話された。一口で述べると、「一切衆生は、人間も犬も猫も全て、元々無心で生きている。だから、「パチン」となれば、みんなが「パチン」と聞こえる。「パチン」という音自体は無心なものであり、個人をも宇宙をも貫く一心である。私心がないから、誰にも分かるのである。生命と心は一つのものである。色即是空というが、空は何もないのではなく、私がないということだ。私がないというのが根本で、因果関係が全てである。」というようなことが漢文で記述されている。臨済録は漢文なので難しいが、内容を要略すれば以上のことになる。
 5月にポーランドへ1週間ほど行くが、クリスチャンが多いと思われる。でも、一心という生命は、クリスチャンをも仏教徒をも貫いているから、国籍や宗教に関係なく、分かり合える。国籍に関係なく、暑いときは暑いし、「パチン」という音も同じように聞こえる。宗教というのは、以上のような大元の教えであるから、ポーランドのクリスチャンにも仏教の話は十分に分かると思う。
 ★茶礼会・夕食会
 老師を囲み、会員が持ち寄ったお手製のお菓子なども頂きながら、和気あいあいの茶礼会となった。初めて参加された山崎さんと2回目の矢口さんも、和やかな雰囲気の中で参加の動機・経緯等を語られた。初心者講座に参加された宮尾さんが、継続して当会に参加されていることから、本年度も初心者講座を開きたいということも話題になった。
 夕食会には8名が参加し、若い人との対話も弾み、また、質問に答える形でも、老師の熱弁はご提唱にも増して益々冴えわたった。「人は、怒りや苦しいことから逃れることはできないし、真向に向き合わなければならない。しかし、それに囚われない、ということが大事である。囚われなければ、心は自由で楽になる。」というようなことが、耳の底に心地よく残った。        (鈴木記)


<<平成25年4月定例禅会>> 参加者:8名 会場:サンライフ長野
 ★例会レポート
 桜の花が満開の会場で、4月定例坐禅会を行った。坐禅の後は、桐山主宰から、前回(2月3日)に引き続き、正法眼蔵第一現成公案の次の箇所の解説をして頂いた。・・・麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、「風性常住、無処不周なり・・・」以下、最後までである。
 解説:麻浴山宝徹禅師が、扇を使っているときに、ある僧が来て問うた。「風の本性・性質は、常住(いつでもある)であり、無処不周(到らない所はない)である。それなのにどうして和尚はその上更に扇を使うのですか」と。宝徹禅師は答えて言う、「お前さんは、ただ風性常住という言葉を知識・概念としては知ってはいるが、まだ、無処不周という(風が実際に吹けば全ての所に風は来ないということはないという現実の様相)道理を知らない」と。僧は再び問う、「無処不周底の道理とはどういうものでしょうか」。そのとき、宝徹禅師は、ただ扇を使うだけであった。僧は、(深く得るところがあって)礼拝した。
 仏法の実際の証しや活きた働きとは、以上のようなことである。風が常住であるから扇を使ってはいけないとか、扇を使わない時も風が吹いているはずであるとかというのは、常住ということも知らないし、風性ということも知らないのである。風性は常住であるという道理によって、仏家の風は、もともと黄金である大地を豊かで荘厳な黄金として現実化するし、もともと蘇酪である長河を美味でおいしい蘇酪として熟せしめている。
 ★茶礼
 現成公案の巻が終了したので、それに関連した感想・意見を出し合った。@私たちが物を食べて美味しいと感じること、これも現成公案なのだと言えるのではないか。A道元の書いた現成公案は、般若心経の注釈書だといわれるが、そのように思えるところがある。
 例えば、心経に「顛倒夢想(ひっくり返る)」という文言があるが、現成公案では「人、舟に乗りて行くに、目を巡らして岸を見れば、岸の移ると誤る」と具体的に分かりやすく書いてある。B「たきぎ灰となる、さらに返りてたきぎとなるべきにあらず・・・」という箇所は、初めて読んだとき、どういう事か腑に落ちなかったが、繰り返し読んでいくうちに分かってきた。端的にいえば、我々が生きている生の中には一点の死もない、生はどこまでいっても生である、ということだ。C言葉にも光にも両側面があり、蒙昧を切り開く強力な矛にもなるし、逆に真相を覆い隠す盾にもなる。D現成公案を理解することは難しいが、坐禅を継続していくことで少しでも近付けるのではないかと感じた。   (鈴木記)

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