<<平成24年5月定例禅会>>参加者:8名 会場:サンライフ長野
 桐山主宰から、2月に引き続き「正法眼蔵第一 現成公案」を読誦しながら解説をして頂きました。「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり修業あり生あり死あり諸仏あり衆生あり。・・・(中略)・・・たとえば冬と春とのごとし。冬の春になるとおもはず、春の夏となるとはいはぬなり。」  茶礼をしながらの講話でしたので、座卓の各自の席には、お茶・菓子・漬物等が並んでいました。桐山主宰は、その食べ物や飲み物を指差しながら、「この目の前にあるお茶やお菓子が、まさに現成公案なのだ。すなわち、ありのままにあるということだ。」と切り出しました。更に続けて、「我々は、物事を自分に引き寄せて決めてかかるので、真実から離れ迷うことなる。老師がいつもおっしゃるように、自分のものなんか、何もないのだ。自己というものはないのに、自分を前面に出すから迷う。本当の自己は万法に照らされて在るもので、自分が無心になると、山が本当の山の色を見せ、谷川が本当の谷川の音を聞かせてくれる。」と言われました。「仏道をならふといふは、自己をならふなり・・・」のところは、特に名文で調子がよく、かつ、「自己をならふといふは、自己をわするるなり。」は決定的に重要なので、桐山主宰も念入りに解説されました。また、声に出して読むことの大切さも強調され、前回と同様に、参加者全員で繰り返し何回も読誦しました。
 茶礼では、旬の野菜が多く持ち寄られ、講話の素晴らしさとともに、清清しい笑顔がこぼれる一時でありました。  (鈴木 記)


<<平成24年6月定例禅会:無得龍廣老師出講>>参加者:9名 会場:サンライフ長野
 坐禅の後、老師から「臨済録」のご提唱がありました。前回の続きで、「五」から「八」まで音読しましたが、解説は時間の関係で「五」のみでした。「五」〜「八」の音読は、「上堂。僧問、如何是仏法大意。・・・中略・・・那箇合受人天供養。便下座。」までです。
 ご提唱にかかわってのお話の概要は、次のようなものでした。
 物事は、黙って坐る坐禅のように、単純なものほど難しいものです。私の坐禅の姿勢は、少し前かがみになってきたので、注意しています。坐禅の呼吸の仕方では、 吐く息が先で、無理をしないように腹を窄めて、ひとつ・ふたつ・・・・と続け、とうまで数えます。そして、ひとつに戻って反復して行います。5回から10回ほど繰り返し数えられれば、合格です。
 先般、東京の道場へ初心者が4人ほど来られ、ひとつからとうまで、2〜3回しか数えられなかった、と言っていました。単純なことの難しいことが、これでも分かります。
 毎月、摂心会を東京道場と裾野の不二道場で行っています。参加者は10人から20人位です。ある時、いつも依頼しているタクシーの運転手が私に言いました。「坐禅を終わって帰る全員が良い顔をされている。近くに会社の研修所があり、その人達は今まさに地獄から抜け出した顔つきをされている。坐る前と後では、顔つきがあまりにも違っている。坐ると何か良いことがあるのですか。」と。坐禅のすばらしさの一端がわかるエピソードです。坐禅中に、いろいろな思いや念が湧いてきても、それを相手にしない、ただ、ひとーつ、と唱えることです。束縛から自由になるのが坐禅です。
★茶話会にて
 新しく参加された矢口さんが紹介されました。矢口さんは、大学の卒業論文で坐禅に関するものを書かれたとのことで、長野禅会の会員は、そのことに感心するとともに、長野禅会の将来の発展を早くも矢口さんに期待しました。 (鈴木 記)


<<平成24年7月定例禅会>> 参加者:6名 会場:サンライフ長野
 いつものように3回の坐禅の後、茶礼の席で桐山主宰から道元の「正法眼蔵」を用いての講話がありました。先ず、参加者全員で現成公案を読誦してから、講話が行われました。
 今回は、現成公案の有名な箇所、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。」から「時節の長短は、大水小水を検点(悟りの大小を判別)し、天月の広狭を弁取すべし」までとしました。
 「仏道をならふといふは、自己をならふなり」というところは、本来の自分を発見するということで、そのためには自分を忘れなければならない、というのである。自分が無心になると物の方から自分に入って来るのである。人間の考えることは、全て乱想である。坐禅をすると自分と他者の境がなくな り、自己の計らいを超えるから、乱想がなくなり、物事の実相に迫れるのである。「我を忘れる」ことが何よりも肝心である。
 「薪灰となる」というところは、日常では、薪は燃えて灰になる。しかし、仏法の世界では灰は灰であり、薪は薪である。つまり、物事が終わってだめになった結果が灰になるというのではなく、灰は灰として100パーセントの命をもって立派に輝いて存在しているのである。同様に、生と死についても、生の終わりが死ではなく、生は生として輝いており、死は死として輝いておる、というのである。
 「春は春で、夏は夏で」というところは、春には春らしさが満開し、夏には夏らしさが満開している、とよく理解できるところを示して、生と死の関係について、我々にも納得できるように説いている。
 最近、驚いたことがあります。一つのものがあれば、必ずその反対のものがある、ということです。若いがあれば、老いがあり、高いがあれば、低いがあり、遅いがあれば、速いがある、という如くに物事は全て相対しているのです。  (鈴木 記)

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