禅と作曲A作曲家集団"たにしの会"をめぐって


桐 山 紘 一

はじめに
 私は作曲家小山清茂先生が主宰する「作曲集団たにしの会」(信州支部)に、昭和四十七年の発足当初から所属させていただきました。毎月1回の作曲研修会が三十年間、ほぼ欠かさず続けられましたから、延べ三百六十回の研修会が行われたことになります。

 信州では、中央から一流の文化人や学者を招き、教師達の研修が盛んに行われてきましたが、これほど長期間に渡って継続され、実績を上げた例は他にないのではないかと思われます。しかも教育会や教育機関などに所属した研修ではなく、全く自主的な任意の団体としての活動であることは特筆すべきことです。

 小山先生の日本音楽芸術の創造と普及に賛同して集まった人達は、音楽科教師を中心に、ピアノ教師、邦楽のお師匠さん等々、学生は小中学生に至るまで、延べ百人あまりに及びます。作曲を通して日本音楽の面白さや大切さ、そして日本音楽の命とも言える独特の日本音階とメロディー、リズムの美しさ、また何と言ってもそれらを無限に展開するための日本和声については、小山先生が最も力説されるところでした。さらに日本音楽教育のあり方は勿論、人間の生き方に至るまで、小山先生からお教えいただいたことは言葉に尽くすことはできません。

 私は教師の傍らの勉強で、作曲は遅々として進まず、先生には歯がゆい不肖の弟子であったと思いますが、先生にお導きいただいて今の私があることを思い、甚々の感謝を込めて拙文を記させていただきます。

 一昨年、先生の体調が思わしくなく、残念ながら小山先生のレッスンは一応終了となりましたが、先生は「元気になったらまた信州へ行く」と奥様におっしゃっているように、ご自分の作曲活動の原点である、生まれ故郷の信州の文化・自然・人をこよなく愛されました。そして西洋音楽によって網羅される以前の、先生が子供の頃から豊かに体験された伝統音楽を出発点にして、日本の音楽芸術創造のために苦闘されたのです。そして「管弦楽のための木挽き唄」を始めとする、日本を代表する名曲を数々世に送り出しました。後半生は日本人の魂である日本音楽の普及にも尽力され、その一つが「たにしの会」の活動であったと思います。


 小山清茂先生との出会い

 それは昭和四十七年、秋の夜のことでした。松本市立開成中学校の故三井政二先生から電話があって、「至急○○の喫茶店に来るように」ということでした。このように何時も親しく電話を下さり、それがお茶会であったり、飲み会であったり、音楽鑑賞会であったりしたのですが、この日、言われた喫茶店に行くと、「この方が作曲家の小山清茂先生です」と紹介され吃驚仰天しました。たまたま開成中学校の校歌を小山先生が作曲され、その発表祝賀会にお見えになったということでした。先生はいかにも人の良さそうなお爺さんと言った感じで親しみがもてました。先生の口をついて出てくる日本音楽界の状況や日本音楽の大切さについてのお話は、私にとっては新鮮で目を見張ることばかりでした。

 当時、私は自分が教える子供達のために合唱曲やオペレッタを作曲していましたが、

どれも駄作ばかりで子供達にとってはいい迷惑だったと思います。そんな矢先でしたので、私は思わず「小山先生、作曲を教えてください」と言ってしまったのです。その時は、はっきりしたご返事がいただけなくて、やはり難しいのかと諦めていました。

 ところがしばらくして三井先生から電話があって、小山先生が作曲の指導をして下さることになったというのです。私は小躍りして喜んだことは言うまでもありません。

 それから三井先生を中心にして大勢の人が集まり、期待と不安の内に小山先生をお招きしての第一回日本音楽研究会(後に「たにしの会」となる)が松本市立源池小学校で開かれました。それは昭和四十八年のことでした。それ以来毎月一回、小山先生のレッスンが三十年間続くとは誰が予想できたでしょう。信州支部会長の故三井政二先生の献身的な努力と、それを支える人々によって「信州支部たにしの会」が発足発展して、多くの方々が小山先生の本物の音楽に触れ、自信をもって音楽教育に演奏活動に、そして日本の音楽芸術創造のために一石を投ずることがきたと思います。


 小山清茂先生のご指導
 「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ。」

  これは確か東条英機の言葉だと思うのですが、小山先生の指導はこの言葉に尽きるものでした。さらに強いて言えば、小山先生の「逆鱗に触れる」と言うことがありました。不注意や物事をないがしろにした時には良く叱られました。それが「逆鱗にふれる」という私達の合い言葉になったように、なかなか強烈なものでした。


 学校では音楽専門の先生として威張っているようなベテランの先生が、生きざまを問われるのですから恐ろしいのです。私が一番肝に命じたことは、テンポ記号を適当に書いておいたことを見て取った先生は、「君は曲のテンポをそんな程度にしか考えていないのか!それで良く音楽の先生をやっていられるもんだ。給料を返した方がいい!」と。その日の私のレッスンは、それで終わってしまったのですが、音楽におけるテンポが如何に大切なものであるか、開眼させられた一瞬でした。

 さて「やってみせ」ですが、とにかく先生が指導されることは全てご自分で実践されたことでした。先ずピアノソナタやソナチネのアナリーゼ。小山先生自らがが作曲された「管弦楽のための木挽き唄」「能面」「信濃囃子」等は、譜面を見ながら鑑賞させて感想を言わせる。さらに当番を決めてアナリーゼしてこさせ、発表させて皆で討議する。また、それらの曲のオーケストラスコアをピアノスコアに書き直させるなどは、大変骨の折れるものでしたが素晴らしい発見と感動があり、また作曲者小山先生のユニークなお話に触発され皆嬉々として取り組みました。それがどれ程勉強になったかしれません。


 わらべうたに適切な和声を置く
 小山先生は、たにしの会発足当初、私達に好きなものを作曲させていましたが、日本音階と日本和声の講義が一通り済んだ頃から、わらべうたに適切な日本和声を置く(主に低音の対旋律をつける)ということを課題にしました。これは一見易しいようですが、わらべうたの旋律を生かし、しかも日本和声にも合致した魅力的な対旋律を付けることはなかなか至難のことでした。それでも一つ二つと良いものができると、それを皆の前で演奏させ賞賛して下さいました。そして◎のお墨付きをもらうのです。ちなみに、やや良いものは○、もう少しは穴あきの丸、とびきり良いものが◎、その内に、こぶ付きの丸などが出てきて、大の大人が一喜一憂して励んだものです。

 それから、わらべうたは自分で採譜することが原則でしたが、何処かの楽譜から引用しても良かったのです。しかし私達はそれをそのまま鵜呑みにして使っていると、先生は一流の日本的な感性をもって不自然な旋律やリズムを修正させ、一音たりともおろそかにしないのです。自然な日本の旋律を大切にされており、それは作曲に於いて終始変わらぬ先生の厳しい姿勢でした。

 さて、苦心惨憺してできた珠玉の◎が、一人十個になると第一段階が目出度く卒業ということで、次は、わらべうたの旋律をテーマにしたピアノ変奏曲等の作曲を許されるのです。

 この学習過程でできたわらべうた二声の曲は、「わらべうたピアノ曲集1〜2」として音楽之友社より出版され、大いに励みになったことは言うまでもありません。これが日本和声・日本音楽そのものを理解するのに最適な学習方法であることは、後になって皆が気づいたところです。

 また小山先生は私達にこの学習課題を与えると同時に、あるいはそれに先んじて、ご自分でもわらべうた二声編曲に取り組まれ、全音ニュースに連載、続いて「日本のピアノ」として全音から出版され、私達はそれをテキストにして取り組むことができたのです。また、そこには「日本和声入門」として十八ページに渡る綿密な日本和声の紹介も掲載されています。それは後に、たにしの会神戸支部会長の中西覚先生を中心にして、より内容が充実され「日本和声−そのしくみと編作曲へのアプローチ−」小山・中西共著として、音楽之友社より出版されています。


 ピアノ変奏曲の作曲
 ピアノ変奏曲の作曲は、単純なわらべ唄の旋律をテーマにして豊かに変奏することですから、作曲の勉強では欠かせないことです。しかし私は、子供達のために合唱曲や歌曲を作ることができれば良いと思っていた程度ですから、ピアノ変奏曲は作る気がしなかったのです。それがとんでもない間違いであることを、変奏曲を作ってみて初めて気がついたのです。歌曲を作るにしても、メロディーやリズムを変奏展開して、豊かな伴奏を付けることができるからです。

 さて、たにしの会は神戸支部と信州支部とが中心になって活動してきましたが、神戸支部は信州より先に発足しています。小山先生が神戸山手女子短期大学で教鞭をとっていて、学生に作曲を指導されていたので、学生やその卒業生の皆さん等々の同志が集まり、中西覚先生を中心にして「たにしの会」が設立されていました。そして作品発表会やピアノ曲集1〜2集(全音)の出版記念演奏会などが活発に行われてたのですが、特にこの第2集に収められた変奏曲は大変魅力的なものでした。たにしの会信州支部会員にとっては願ってもないお手本となりました。

 夏休みを利用しての研修会で、神戸と信州の交流会が松本市で行われたことがありました。そこで大学を卒業したばかりの吉野伸子さんと古門由紀さんが、ご自分の作曲したピアノ変奏曲を見事に演奏して下さったのです。このような曲が、もし自分にも作ることができたらどんなに素晴らしいことかと・・・。私はその時からピアノ変奏曲作りを始めたのです。このように信州支部会員は、常に神戸支部の皆さんの成果を目標にして、いつも憧れと希望をもって困難な作曲活動を続けることができたのだと思います。


 作品発表会と出版活動
 わらべうた二声編曲やピアノ変奏曲の作曲を通して、少しずつ力をつけた会員は、いよいよピアノソナタや室内楽、さらに童謡、歌曲、合唱曲は勿論、夢にまで見たオペラ、オーケストラの作品まで取り組むようになったのです。それらの作品は、ほとんど全て作品発表会等で一流の演奏家によって発表されています。

 行われた作品発表会は信州支部で、出版記念演奏会等も含めて20回、神戸では27回、信州・神戸合同発表会が東京で2回、この他オペラの上演、オーケストラ作品初演等々を含めると、合計50数回にも及びます。 めぼしいものを上げると、神戸支部では5回に及ぶ管弦楽の夕べ。中西覚作曲の、オペラ「ゆく河の」「宮水」などの6作の上演。信州支部では長野冬季オリンピック芸術祭参加「日本の響き」。永井彰作曲、交響詩「信濃の山に木霊して」の長野冬季オリンピック芸術祭参加。藤城稔作曲の音楽劇「円仁」の上演。桐山紘一作曲「一人おぺら土佐源氏」の上演等々があります。

 小山先生の厳しいレッスンを通して生まれたこれらの作品群は、単なる修作といったものでは無く、作曲の勉強が即芸術作品としていつも問われるものでしたから、作品は音楽之友社のご理解をいただき出版されてきました。沢山のピアノ曲集(わらべうた二声曲・変奏曲・連弾曲・ソナタ等々)また、金管・木管・和楽器等々のアンサンブル曲。童謡曲集をはじめ、5冊に及ぶ日本歌曲集等々です。そして近年色々の団体や演奏家によって、私共の作品が少しずつ演奏されるようになったことは大変嬉しいことです。


 日本音楽の限りなき発展を願って
 子供が「花子さん」と遠くから呼ぶときは、音程は必ず2度の上下関係にあります。ちなみに西欧では3度の関係になっています。そして子供達に、並べた日本語を自然に唱えさせていくと、日本音階のわらべうたのようになっていきます。それを西洋音階(ドレミ)にするには、終止音を根音(ド)にする等、音階をかなり意識して取り組ませるか、西洋音階による音楽をかなり学習し経験させておく必要があります。しかしそのような子供でも、夢中で友達を呼ぶときは、やはり2度の上下関係になっているでしょう。

 このように日本の音階は日本語の特質や日本人の生活と密接に結びついており、しかも数千年の民族の歴史を経て発展してきたものです。したがって日本語が無くならない限り、日本音階を無視して日本人の音楽や教育を語ることはできないのではないでしょうか。

 さて、渋谷の劇場ジアンジアンの支配人高嶋進氏から信州大学の飯田忠文先生を介して、宮本常一原作「土佐源氏」というオペラの作曲依頼が私にありました。送られてきた大月龍胆氏の台本を一目見て、男女のあまりにも露骨な表現にとまどってしまい、しかもこんな大曲を技量のない私には到底できないと思いました。小山先生に相談したところ、「そんなこと少しも心配いらない。宮本常一の名作である。これを引き受けなかったら、今まで勉強してきた価値がない。」と言われてしまいました。

 そして、小山先生に励まされ、三年もの月日を要して何とか完成することができました。 初演は平成十二年三月に、劇場ジアンジアンで、また十五年には東京と長野で再演され好評を得ました。

 このおぺらは、小山先生による厳密な日本和声と伝統的な語りの様式をふんだんに取り入れたているので、演奏が難しいのではないかと心配しました。しかし主演の名バリトン鹿野章人氏は「全く違和感無く自然に歌えた。今まで沢山のオペラに取り組んできたが、やっと自分が本当に歌える曲に出会えた」と喜んで述懐されています。それは日本語と日本音階による旋律の理想的な調和によるものと思われます。そして言葉がはっきり分かったという感想を多くの方々からいただきましたが、それは勿論、鹿野氏の卓越した表現力によるところが大きいわけですが、日本語が生きる日本音階によるメロディーと和声である事を見逃してはならないと思います。

 大作曲家は全て、自分が所属する民族の音楽を大切にし、それを基盤にして音楽芸術を創造してきました。日本は不幸にも伝統音楽があまり省みられず、教育界も音楽界もそのほとんどが西洋音楽一辺倒です。そんな中で小山先生の格闘が続けられ、日本人の魂である伝統音楽がクローズアップされ、日本音階を元にした和声を獲得して、新しい日本の音楽芸術として甦りました。小山先生の功績を讃え、先賢は後愚によて廃ることのないように、私達も励んで参りたいと思います。そして本当の日本音楽が永遠に栄えることを願って止みません。



メニュー次へ禅と作曲B
戻る 目次ページに戻る  戻る トップページに戻る