禅と作曲@作曲の原点


桐 山 紘 一

はじめに
 禅が私の作曲活動に大きく影響していることは確かですが、どのように関係し、影響しているかを述べることは困難が予想されます。何故ならば禅は禅として、作曲は作曲としてそれぞれ独立完結しおります。それでいて禅は私にとって作曲活動そのものであり、また作曲がそのまま禅であると言えるからです。従って私の作曲や作曲活動について、できるだけ厳密に記述すれば、それがそのまま禅ということになりますが、しかしそれでは音楽論文の様になってしまいます。
 また、私の作曲についてとやかく記述しても、それは月を指す指のようなもので、私の作曲そのものでは無いのです。従って、私の作曲の事実を知ってもらうには、唯一、楽曲を聴いてもらうしかないということになります。しかし、それでは「禅を生きる」というテーマで記述する意味がなくなってしまいますので、できるだけ禅の世界把握と音楽芸術を関連づけて、エッセイとして皆様に読んでいただけるように努力したいと思います。
 ここで禅と言った場合、禅経験や禅の修行によって開かれた境涯を意味しますから、それがいつも私自身に問われていることになります。考えてみれば恐れ多いことです。 しかし作曲活動が、私の生涯に渡る修養の道として開かれ、「土佐源氏」というオペラを完成することができたのは、全く禅の修行と軸を同じくしており、禅のお陰であると言っても過言ではありません。


 はじめに感動ありき

 先ず、芸術表現の出発点である「感動」ということについて考えてみたいと思います。

  父・・「いっぱい花が咲いているよ、綺麗だね!」

  子・・「綺麗だね〜!」

  子・・「お爺ちゃん!綺麗な花が咲いているよ!!」

  祖父・遠くからやって来て「本当だ!綺麗だね〜!!」

  子・・「お婆ちゃん!綺麗な花が咲いているよ!!!」

  祖母・「この花、おおいぬのふぐりって言うんだよ」。


 我が家の生活事で恐縮ですが。3歳の孫は最近特に周りのものに強い興味関心を示し、それを皆で共有することを楽しむようになりました。美意識が少しずつ心の内に育ち始めている時節、父親の言葉を契機に、未経験の自然美に感応し、「綺麗だね〜」と情感豊かに言語表現しています。

 このように私達は感動を契機にして、今までの自己を捨てて、より高次な新しい自己に脱皮することができるのだと思います。その掛け替えのない喜びを多くの人と共有したいという思いが、文学や絵画、音楽等々の芸術表現になっていくのではないかと思います。

 ちなみに、この会話をメロディーにしたら起承転結にぴたりはまった、美しい歌曲にすることができるでしょう。ここに音符を並べることができないのが残念です。


 祈りと感動
 キリスト教をはじめとして殆どの宗教(天啓教)は、この感動経験を修道の中心にしているように思います。日々行われる言葉による「祈り」は、永遠なる実在への憧憬であり、感情移入であり、いわば感動経験による自己否定のいとなみといっても良いでしょう。

 自らは救いようのない貧しき人間(素直な人間)が、神の前にひれ伏し、神のひらめきによって救済されるのです。その喜びと感謝(深い感動経験)に突き動かされて、大作曲家は競って聖歌やオラトリオ等の名曲を数多くつくり出してきたのです。また、それを聴く人々は、喜びと感動の渦に包まれて神に救済されていくのです。

 このようにしてキリスト教は、西洋音楽芸術と共に発展としてきたと言っても過言ではありません。

 これに比べて仏教では、「祈り」という修行形態をとらない・・・と、断定すれば批判をいただきそうですので、言い換えれば、天啓教に比べて「祈り」の比重が遙かに薄いと思います。つまり仏教では、「祈り」による感動経験を通してではなく、坐禅瞑想や、信ずることによって自覚、または解脱するのです。(自覚教または解脱教)

 したがってキリスト教のように、神(仏)を瞻仰するような音楽芸術が発展しなかったのではないかと思われます。しかし禅では、音楽よりも特に漢詩として豊かに表現されており、それらは禅と共に発展した文学芸術の極みといってもよいでしょう。


 感動の極み
次は有名な東坡居士の詩です。

 谷川の音は、そのまま仏の説法

  山の色は、すべて仏の清浄身

 夜来聞く八万四千の偈

  いかにして人に示すことができよう。


               (玉城康四郎訳)

東坡居士がお悟りを開いた夜の前日に、居士は、常総禅師に無情説法について尋ねていますが、その時の禅師の言葉では、即座に悟ることはできなかった。しかしその翌日、谷川の音が聞こえた時、さかまく波浪が天を打つような思いがあり、この詩を賦して常総禅師に呈示すると、禅師は、よしとして許されたのです。

「さかまく波浪が天を打つ思い」と道元禅師が評しているように、相対感がいっぺんに切って落とされ、怒濤の如く真実が如現したのでしょう。その感動、いや驚きは如何ばかりであったことでしょう。

「谷川の音が岩盤と森にこだまして、蒼天の星と共に無窮の歴史を引き連れて、今ここで渓声となって私が響いている。その素晴らしい、ありのままの事実を、どうやって人に伝えようか、いやとてもできるものでは無い・・・。」と言っているようです。

 居士の、その後の消息は定かではありませんが、真実を見た感動を沢山の詩に託し、生涯説法し続けたに違いありまでん。しかし八万四千の法門は、とても言い尽くすことができなかったことでしょう。

  感動は、自己の内なるものと外なるもの(自然・文化・芸術・技術・生き方・法・等々)とが感応した時に起こります。その差が大きければ大きいほど感応しにくくなりますが、感応した時の喜び・感動はより大きくなります

 多くの経験と長年月にわたる修養を積み重ねて、外なる高い次元に近づいたその時節、感応同交が起こり、内外が止揚されて大きな感動と共に、今までに経験したことの無い高次元の自己に変革します。あらゆる芸術は全て、これらの感動経験から表出してくるのだと思います。

 作曲における感動経験の大切さを述べるだけで、本稿は終わってしまいましたが、作曲の具体については次回に述べさせていただきます。

                 参考文献 玉城幸四郎著 正法眼蔵1 大蔵出版



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