宮本常一の世界(2)


桐 山 紘 一

1、はじめに
 宮本常一の世界(1)では、彼独特の実践民俗学を通して、近代化によって置き去りにされた人々に限りない愛を注ぎ、埋もれた日本の文化を調査・発掘・紹介する活動を通して、衆生済度に生涯を捧げた人であると述べました。そして極めて禅的な物の捉え方と生き方をする人間宮本常一の背景を、彼の業績や生い立ちから探ってみましたが、その過程で彼の人生に多大な影響を与えたと思われる二人の師がクローズアップされてきました。それは宮本が大阪天王寺師範学校時代から師と仰いだ教育哲学者である森信三と、国語教育学者の芦田恵之介です。
 さて、私も教師のはしくれでしたから、この偉大な教育者であるお二人を尊敬していますので、宮本の民俗学について一層親しみをもったのは言うまでもありません。そこで宮本がこの二人の師からどのような指導や影響を受けたのか私なりに明らかにして、宮本民俗学の根幹に迫りたいと考えたのです。
 ところが本稿を書くために色々の資料を当たってみても、多大な影響を受けたと思われる2人の師匠について宮本はほとんど記録を遺していないのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。民族調査に奔走していて記録に遺す暇がなかったのかどうか。またその二人の思想と宮本民俗学の関係を論述した文書は皆無に等しいということも理解に苦しむところです。したがってこれから書くことは二人の師の思想を紹介することがが中心で、宮本がどのように関係して影響をうけたかは類推の域を出ません。しかし宮本の生き方や業績を見れば、西田幾多郎の門下生で実践哲学とも言える世界を生きたぬいた森信三と、生活綴り方教育に生涯をかけた芦田恵之介の生き方が、そっくりそのまま師資相承して宮本の実践民俗学に開花しているのではないかと思われるのです。
 「応に知るべし、他未だ曽て発心せずと雖も、若し一人の本分人を見れば則ち其の道を行得せん。未だ一人の本分人を見ずと雖も、若し是れ発心せば、則ち其の道を行膺せん。既に両闕う以てせば、何を以てか一益あらん」と。(典座教訓)

 2.森 信三の全一学
 ・・・・人間は一生のうち、逢うべき人には必ず逢える。
       しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない内に・・・・
 これは森信三の言葉ですが、仏教の中心的な概念である縁起思想を端的な人生き方として表現しているように思います。そして人間の小賢しい分別心を切り裂き、無我の底からわき上がってくるような不思議な力を感じます。このような禅の境涯とも言える人生訓は彼の実践哲学の結晶であると言っても良いでしょう。
  ちなみにいくつかを紹介してみたいと思います。

・幸福とは求めるものでなく与えられるものである。自己の成すべきことをした人に対して天から
 与えられるものである。
・朝の挨拶は人より先に。これを一生続けることは、人として最低の義務である。
・足元の紙くず一つ拾えぬ人間に何ができよう。
・物事はすべておっくうがってはいけない。そのためには先ず身体を動かすことを俊敏に。
・人生二度なし。これは人生における最大最深の真理なり。
・良いことは隠れてやれ。悪いことは発表せよ。
・長い長いと思っている間に、泣いても笑っても来るものは来る。
・人は自分の理解していることしか聞こうとしない。
・口が一つで耳が二つあるのは、二倍聞くためである。
・目的に近づけば近づくほど一層困難は大きくなる。
・やらぬ先から○○をやると言う人間は大したことができぬと言って良い。
・ほんのわずかのことで良いから、人のために尽くす人間になろう。
                               以上「不尽草書 」より
 これで森の実践哲学を言い尽くしているように思いますが、その背景をもう少し探ってみたいと思います。
 森信三は京都大学で西田幾多郎の禅の哲学を学びました。「純粋経験」から「自覚」を経て、「場所」に結実した西田の哲学を、森は更に人間の生き方としての思想にまで展開しました。経験という人間の全体活動(実在)を論理的に分析したのが西田とするならば、分析された論理を統合して日常経験の場・教育表現の場に再現したのが森であったと思います。
 そして森は「各自がそれぞれ全一的生命から与えられた、二度と繰り返し得ないこの地上の生において、自ら授かった天賦の素質を、いかに発揮し実現するかをまなぶ学である」(全一学ノート)として、「全一学」を提唱しています。
 何故「哲学」でなくて「全一学」かと言うと、「哲学と言った場合、通常、プラトン・アリストテレスから始まって、デカルト・カント・ハイデッカー・ヤスパース・・・・と、いわゆる西洋哲学がまず頭に浮かび、仏教・儒教・老荘などの東洋思想を想起し得ない。また西洋哲学は、主知主義的な傾向が顕著であるので、どこか親しみにくい。哲学が世界観と人生観の統一の学であるとしたら、少なくとも東洋人、とくに日本人の場合は『いのちの全一性を自証する立場』であるべきであるので、名称を『全一学』とする方がのぞましい。」(全一学ノート)
 私なりにまとめてみると、全一学は、あらゆる先入観をかなぐり捨てたところから、現実をありのままに凝視して、現実生活から学び、現実生活に力を発揮するための実践哲学であるといえます。
 先に、この全一学(実践哲学)が宮本の民俗学に開花しているのではないかと述べましたが、それを実証するために宮本民俗学の独自性をさらにクローズアップしてみたいと思います。

 3.宮本民俗学の独自性
  「旅する巨人」の中で佐野眞一は次のように述べている。
  「口承文芸からはじまった宮本の関心は、生活誌、民俗学、農業技術から農村経済、はては塩業史、漁業史、民族学、考古学、日本文化論にいたるまで果てしなく広がっていった。よく宮本の学問には、体系がない、方法論がない、と言われる。たしかに宮本の著作には、論考なのか随筆なのかわからない文章が多く、その意味で、宮本を一つの学問領域に限った専門学者と定義することを困難にさせている。いわゆるアカデミズムの世界での宮本評価が低いのは、たぶんそのためである・・・・・云々。」
 また、宮本は「海の生活誌」の中で次のように語っている。
「海音が耳の奥にひゞく如く、故郷を偲び、これを愛する心が・・・単に生まれたる地であるが故にという意味ではなく、・・・そこに住む人たちをして真に心地よく住みつく地であらしめたいと念願する心が、この報告を書き続けいる間、ささやき続けていた。採集に歩いていても、そんな心がたえず動いていた。いはゞ学問的興味にのみ終始できなかったのである」と。
 このように宮本民俗学の原点にあるものは、学問の範疇を越えた、生活する人々への限りなき愛であり救済であったのです。従って宮本の民族調査が即、農業振興活動に、そして農業経済や農業技術にまで発展することは当然の成り行きであったと思われます。
 また宮本の表現スタイルは、自ら「口承文学」と称しているように、鋭い感性をもって対象に迫り、最も直接的な表現スタイル、それが詩であったり随筆であったり、紀行文であったりしたのですが、それは宮本独自の民俗学の一貫した姿勢であり、このような形こそ宮本が画いた実在に迫ることのできる唯一の統合的な方法であったと思われます。

 4.全一学と宮本民俗学
  私達の日々の生活である実在は、家であり家族であり、自然であり日本の文化の営みであり、しかも経済であり歴史の頂点でもある総合的な命のはたらきと言えます。ところが科学としての学問は、それを分析し限定して、経済は経済のみに、歴史は歴史のみに終始し、しかも近代化という名のもとに人間の本来の営みである実在から遠く離れたものになっていったと思います。そのことを宮本は自伝とも言われている「民俗学の旅」で、次のように述べています。「いったい進歩といわれるものは何であろうか。発展というのは何であろうか。失われるものがすべて不要で、時代遅れのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が退歩しつつあるものを進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生きるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある」と述べています。
 さて、ここまで述べてくると宮本の民俗学はそっくりそのまま先に述べた森信三の実践哲学である「全一学」と一致することに読者は気づかれることでしょう。「命の全一性を自証する立場」は、宮本民俗学に見事に開化していると言えます。宮本が幼き日、家族と共に過ごした豊かな生活体験は、大阪天王寺師範学校時代の森信三との邂逅によって、実践の学問として基礎付けるられ、さらに柳田国男によって民俗学として開化したと言っても良いでしょう。混迷の現代に生きる私達にとって、分析から統合へ、客観からより人間的な主観的把握に統合していった宮本民俗学は、新しい人類の未来を開く鍵となるのではないでしょうか。そういった意味で宮本は勿論、森信三も全(禅)を生きた人と言ってもよいでしょう。(森と同じく宮本民俗学に多大な影響を与えた芦田恵之介の思想については、次回を待ちたいと思います)



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