宮本常一の世界(3)


桐 山 紘 一

1.はじめに
 宮本常一の世界(2)では、森信三の教育哲学である「命の全一性を自証する立場」は、宮本常一の民俗学にみごとに開花していることを、互いの特性を比較しながら述べました。
 本稿では、宮本民俗学に多大な影響を与えたと思われる芦田恵之介の思想と実践を探り、宮本民俗学の根幹に迫りたいと思います。

 2.芦田恵之介との邂逅
 昭和四年、二十二才の宮本は、専攻科を出て大阪府泉南小学校に勤めながら、郷里の伝説を調べ原稿にまとめる作業を続けていました。民俗学の第一歩となる処女作「周防大島」、「旅と伝説」等はこうして生まれたのですが、真夜中の原稿づくりがたたったのか、肋膜炎から肺結核となり休職して、失意の内に帰郷したのです。
  二階の蚕室を改造した部屋での二年間の闘病生活を、「更正記」で次のように述べています。「結核は伝染病として恐れられ、誰も訪れて来る者がいなくなった家に、ときおり顔を見せるのは医師だけだった。医者の目には明らかに危篤であった。夕方になっても、誰も戻ってこない。灯のともらぬ薄暗い部屋で、密かに母を呼んでは涙した・・。」  真夜中にふと目覚めて己が手に脈あることをたしかめけり
 病状は一進一退、絶対安静が数ヶ月続きましたが、「秋、稲の色づく頃、私は再び起きることができた。」一命をとり止めた宮本の喜びはいかばかりであったろう。自ら「第二の誕生」と呼び、その喜びを詠んだ沢山の歌を遺している。
 わがこもる海辺の村はかぐわしきみかん花さき春ゆかむとす
 危篤の病床に付き添った女性との恋もあった。
 手をとりて乙女に言ひつまづしきはまづしきままに生きつがむもの
 そして、長男に家督を譲りたいという父の反対を振り切って、故郷を追われるようにして大阪に戻り、教員として勤めることになりましたが、それは止みがたい民俗学への新しい一歩でもありました。
 歯のぬけて頬おちにける父親をふとまともに見うなだれにけり
 父や友人の死、女性問題、人生問題を抱え、生きてゆく気力を失いかねないほど、心に深い傷を受けていた宮本は、芦田恵之介との邂逅によって救われたのだとわれます。
 宮本が芦田恵之介に師事することになった時期やいきさつについては、定かではないが、芦田恵之介の主宰している教育雑誌「同志同行」復刻二号で、次のように述べている。
 「私が縁あって老師の指導をうけるようになったのは昭和九年からであった。和気二男兄を通じてであった。私はもとより人間としてきわめて弱いもろいものを持っており、思考も行動も傷だらけで、世の中を生きて行けるのが不思議なような一人である。多くのよき先達のあたたかい庇護がなかったら、決して今日まで生きてくる力も勇気もなかったと思う。老師は私のそういう弱さをつつんでくださった一人である。曾て『同志同行』が出ていたころ、老師からしきりにすすめられて書いた。半分気恥ずかしくしていると『よいよい』 と言ってくださったのだが、生きておいでなら今もやっぱりあれに似た言葉をかけてくださるのではないかと思う。・・・・」
 芦田の「御教」で「死を思うた」ほどの「煩悶は消えた」と宮本が述べており、宮本の人生にとって芦田との出会いが大きな転機になっていることは明らかです。
 芦田はその頃、東京高師付属小学校などで教鞭をとっており、恵雨会という全国的な教育運動の団体を率いていました。宮本は芦田の人格と教育に傾倒して、彼を招いての国語研究会を小学校の仲間の先生方と開き、泉北恵雨会(大阪市泉北郡浜寺小学校・昭和九年)を組織し、その中心的メンバーになって活動しています。また芦田は退職後、自らの修行の場として、二十六年間に及ぶ「教壇行脚」を行い、全国の小学校をめぐり児童を相手に読み方と綴り方の授業を続けましたが、宮本はそれに随行することが屡々あったようです。

 3.芦田恵之介の開眼
 宮本が芦田に師事する経緯にだいぶ紙面を費やしてしまいましたが、ここで芦田が生涯をかけた綴り方教授を中心にしてその教育を概観してみたい。
 さて今回、芦田のホームページや著書を調べる内に、彼の人生に決定的な転機があったことが明らかになってきました。明治期の芦田も「綴り方教授」に熱心でしたが、大正期に入り二度目の東京高師付属小時代、あることをきっかけにして大きく変化し、論説や著書を矢継ぎ早に発表し、綴り方教授が一段と精彩を放ってきました。
 「国語教育易行道」の中で彼は次のようにその心境を語っています。
 「私はこの頃になって、自分の生活ほど尊いものはないと思いはじめました。自分の生活はすべて端的です。嬉しい事があって喜び、その悲しみは、自分に説明を要することでなく。又決して他人の容喙を許すべきものでもありません。麦畑の草をむしることを、親に事うる最大の事と考えてもよし、倒れて泣いている子供をおこしたのを、博愛の最高なるものと考えてもよいのです。即ち与えられる天地に、自己を育てているのです。その時にはそれ以上の行為はないのです。如何なる修行も、己が生活圏内に入ってくる一切の問題を、己が真心の命ずるままに善処すること以外に、何があるでしょうか。禅堂に坐し、静坐の室に端座瞑目するのも、それは自己を究明する方法にすぎません。その究明した自己が、安心し、満足できる行動を、一切の生活上に具現することが修行なのです。・・・中略」さらに、綴り方教育の自由選題に触れて「ここでは岡田先生や嶽尾来和尚の御教で、外につく目を内に向けさせていただきました。これまで義務としていた仕事を、修行としてするようになりました。・・・」
 岡田先生というのは静坐法の岡田虎二郎のことです。芦田恵之介も多くの知識人と共に岡田のもとで熱心に修行したようです。静坐会の数は最盛期には七十七、参加者は十万人を数えてといわれます。静坐法は坐禅の形を静坐に置き換えた禅と言えますが、それについての言及はこの程度に留めておきたいと思います。
 このような禅の境涯ともいえる人生観は、岡田虎二郎の静坐を契機として開かれたことはまちがいありません。

 4.綴り方教授
 「外に着く目を内に向けさせていただいた。」というのは、いままでの概念や先入観を立てて全てを見、自己を外部から規定し、教育もかくあるべきものとして、そのような自分の理解に合致するものを第一義と考えていたのが、既にそれ以前に全てが整い、天地と一つになった、ありのままの自己がぴちぴちと働いている事実に目覚め、相対が一遍に切って落とされたのではないでしょうか。そのところを彼は「綴り方教育に関する教師の修養」の中で、「宇宙の万象が我に映ずるところを子細に観察研究し、吾人が天地自然の運行と軌を一にする大道をあゆむことを覚得せば、教育の基礎は全くここに築き上げられるのである。この第一義が確立して、はじめて、万人は各その事情・境遇に応ずる種々の変化を遂げる。即ち万人悉く差別あって、而も平等の響きあるようになる。」・・・と述べている。私共の宗門の「一即一切、一切即一」「自他一如」、いわゆる「法身」に目覚め、彼は全ての教教育活動をそこから見直したのです。
 先ず芦田が第一に強調したことは、教師の修養である。落ち着かない児童に対して先ず教師に安心の態度が無くてはどうして児童の自主的な生き方を育てることができようか。教師の修養さえ進めば教育は自ら正しい道に進む。したがって教育研究は教師の態度によって、児童の学習態度を定めることを研究しなけらばならない。
 綴り方は尊い修行の一道である。つまり、被教育者にとっては日常生活を見つめ常に新しい自己を発見し、人格を高めるものであること。このように自己の生活を通して修養の態度(問題を解決する生き方)を開くことが教育の最大の目的である。さらに綴り方教授の最捷径は、教師自らが文を書くことであり、書いてみればその苦心も愉快も、成功も失敗も悉く味わうことができて、教授の秘訣は自然に会得できる。文を修養と見るときに、いよいよ楽しく尊くなる。等々と述べています。
 私共の禅門は言端語端に走ることを強く戒めており、しかも書物がこれほど多い宗門はないように思います。禅門では自己究明の結果は、書かずにはおれなかったのではないでしょうか。書いておいた修行録が後に刊行されたのが、それぞれの祖師方の語録だったのだと思います。真剣に修行した方には、一生に何十巻かあるべきです。芦田が「綴り方は故郷であり修行の殿堂である」と述べていることは、このようなことではないかと思います。

 5.おしまいに
 芦田の修養としての「綴り方」を身に付けた宮本は、公教育の場を越えて日本民族の生活の中に生きた素材を見つけ、自らの修養として民俗調査に奔走しました。そして口承文学(綴り方と言っても良い)とも呼ばれる彼独特の民俗学をうち立て、膨大かつ貴重な著作を遺したのです。私はそれを「実践民俗学」と命名させていただきましたが、ここで改めて「人間の生きた証しの学」「生き方民俗学」「修養としての民俗学」等々と命名した方が、相応しいように思うのですが如何でしょう。
 私の作曲した「一人おぺら土佐源氏」から出発した疑問(なぜこのように赤裸々な庶民の姿を書いたのか、それはどのようにして実現したのか、またなぜこの作品が注目されるのか)は、私にとって宮本民俗学の背景を探る作業となりましたが、それは森信三の実践教育哲学から西田幾多郎の禅の哲学に、そいて芦田恵之介の生活綴り方教授から、岡田虎二郎の静坐法の禅の思想まで、思わぬ方向に広がってしまいました。しかしそれが私自身の修養として楽しい、しかしちょっぴり苦しい、新しい発見の旅でもありました。

   参考文献
        「芦田恵之介国語教育全集」(全二十五巻)  明治図書
       田井康雄編「人間と教育を考える」  学術図書出版社
       HP 竹田地区に関係深い人々     芦田恵之介




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