宮本常一の世界(1)


桐 山 紘 一

1、はじめに
 私が渋谷の劇場ジアンジアンから「土佐源氏」の作曲の依頼を受けたのは八年前のことでした。送られて来た大月龍胆氏の台本を一目見て、すさまじいばかりの一庶民の生き方に衝撃を受けました。
 ジアンジアンの支配人高嶋進氏はこのオペラの紹介文で「民俗学者宮本常一による、土佐檮原の橋の下に住む目が見えない老人からの聞き書きで、その生涯の色事の話は、直接的な飾らないしゃべりで残酷な上に無上の美しさがある。」と述べています。私は男女の露骨な表現にはとまどいを感じましたが、台本や原作を読み返す内に、主人公の悲惨な生い立ちと馬喰という限定された生涯にもかかわらず、単なるエロスを越えて人間愛を貫いた誠実な生き方に感動しました。それから三年程かかりましたが一時間半の「一人おぺら土佐源氏」を完成させることができ、2000年3月にジアンジアンの企画で上演されました。
 さて「土佐源氏」は岩波文庫の「忘れられ日本人」の中の代表作ですが、このような作品を残した宮本常一とはどのような人で、どのような思想や背景からこれらの作品が生まれたのか、私なりに探ってみることにしました。またこれがタイトルの「禅を生きる」と、どのように関係するかはこの稿の目的とするところですが、一口で言うと、宮本常一は彼独特の実践民俗学を通して衆生済度に生涯を捧げた人と言えるからです。「実践民俗学」という学問的なジャンルがあるわけではありませんが、極めて禅的なものの捉え方と生き方をする宮本民俗学を指して、そのように命名させていただきました。

 2、宮本常一の人と業績
 宮本常一は日本中の集落を歩き尽くし、近代化によって忘れ去られ、消えようとしている日本民族の文化を掘り起こし、沢山の貴重な記録を遺されました。「宮本常一が見た日本」(佐野眞一著)によると、その足跡は四千日、十六万キロに及び、戦前戦後にかけて採集された記録は今まで出版されている「宮本常一著作集」(未来社)の四十三巻ではとても収まりきれず、優に百巻を越すであろうと言われています。内容は民話、伝承、生活詩、民俗学、農村経済、農業技術、漁業史、考古学、文化論に至るまで果てしなく広がっています。
  司馬遼太郎氏は、「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほど確かな目で見た人は少ないと思います」と言われているように、近代化以前の文化スタイルである、歩くという行為によって、近代化によって忘れ去られ置き去りにされた人々に寄り添い、より確かな目で見聞きすることができたのではないかと思います。また真の学問は心身を通した体験によって、豊かな創造へと展開できるものであることを宮本の生き方から学ぶことができます。
 宮本は、対象と同じ目線に立ち、自他一如の所から観察しています。そして学問というより、無上の笑顔で忘れられた人々に話しかけ、自ら立ち上がれるように明るく励ましていく救済活救済活動とも言える民俗調査は、多くの人々が尊敬をもって証言してしているところです。ある時は芸能振興や農業の指導に奔走する宮本であり、それらの功績は離島、山間地を中心に全国に及んでいます。例えば、今では有名な佐渡の鬼太鼓座(おんでこざ)や、古くから伝わる裂織技術等は宮本の尽力で復活したものです。
  私は昨年自分の家の土地に「平核無」という柿の苗(おけさ柿または八珍柿とも言う)を二十五本植えました。後で分かったのですが、宮本は佐渡の気候風土をつぶさに調査し、地域産業の振興を期して、この平核無柿の普及活動を熱心に行い、今では年収2億円の佐渡の特産に発展しているということです。 平核無柿は新潟県で発見され、宮本の尽力によって佐渡で普及し、巡りめぐって信州片田舎の私の所まで響いて来たことを思うと、その実践民俗学の先見性と菩薩行ともいえる生き方に、あらためて敬意をもちました。
  私は、この柿を冷凍柿にして売り出そうという地域の方の勧めにより、栽培に取り組むことにしたのです。そして農家が夢と希望をもって自立していくという宮本の理想を、私も少しでも実現していこうと思いを新たにしました。

 3、人間宮本常一の背景
 このような宮本の民俗学を引き出し、物心両面に渡って支援したのが渋沢敬三です。彼は宮本に向かって次のように話しています。
 「日本文化をつくりあげていったのは農民や漁民たちである。その生活をつぶさに掘り起こしていかなければならない。多くの人が関心をもっているものを追求することも大切だが、人の見おとした世界や事象を見ていくことはもっと大切なことだ。本当の学問が育つためには良い学問的な資料が必要だ。特に民俗学はその資料が乏しい。君はその発掘者になってもらいたい。こういう作業は苦労ばかり多くて報われることは少ない。しかし君はそれに耐えていける人だと思う。」
 宮本はその話を聞いて、生涯の師と生涯のテーマを得たと身を震わせて述懐しています。そして敬三の主催する「アチックミュージアム」に入所し、渋沢敬三の指導と支援をうけて民俗調査に邁進したのです。
 さて渋沢敬三にそう言わしめた宮本の民俗学者としての素地は、彼の豊かな生い立ちにあるように思われます。彼の故郷は山口県周防大島であるが傾斜地が多く米はほとんどとれなく、島の人口に見合う農業生産にならず、人々は島外に働きに出るのが常となっていました。彼の父はフィジーまで、祖父は長州大工として一度は島外へ働きに出ている。外祖父は台湾、朝鮮と渡り歩き四十年近くの放浪生活をしました。このように世間を広く歩き、豊富な知識や経験を元に故郷の人々の生活を良くしようと働く人たちを世間師と呼んで尊敬されていました。そういう意味では宮本も世間師と言えるのではないでしょうか。
 次に、宮本が幼少の頃、最も影響を受けたのは祖父の市五郎です。その市五郎から寝物語に沢山の昔話を聞いたことが、民俗学者宮本常一を誕生させる大きなきっかけになっていると宮本自身が述懐しています。
 宮本の家は、善根宿といって、旅する者は誰でも無料で泊めていました。市五郎は自分が食うに困っても、旅芸人をはじめとする漂白の民を温かくもてなしたのです。宮本が貧困の人々や弱い者へ共感をもって接していくのも、この祖父から得た感化によるところが大きいと思われます。また彼の父善十郎は村の産業振興のため、組合を作って養蚕を盛んにし、ミカンを奨励して奔走する篤農家でもありました。このような祖父と父の取り合わせは、宮本が実践的民俗学者になるための好条件になっていたのです。
 さて、宮本が天王寺師範学校時代から教員の時代にかけての人生の師と仰ぐ森信三は、京都大学哲学科に学んだ西田幾多郎の門下生でした。もう一人の芦田恵之介は禅を学んだ国語教育実践家です。この二人の影響を除いて宮本の実践民俗学を語ることは出来ないと思われますが、今まで出版されている宮本に関する資料にはあまり出てこないので、別の方向から調べて次の機会に述べてみたいと思います。

 参考文献 宮本常一が見た日本  佐野眞一著        日本放送出版協会
        旅する巨人        佐野眞一著         文芸春秋社
        宮本常一の伝説     さなだゆきたか著     阿吽社
        忘れられた日本人    宮本常一         岩波文庫



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