動中の禅4(無分別の分別)


小論 桐 山 紘 一

はじめに

 動中の禅を実現するためには、丁度そのときに顕現してくる機縁を観ずること。そのためには、自尊心や馴れ合い、慣習にとらわれない自由な意志、つまり無心が求められること。その具体的体験的な事例を上げて考察してきました。

 今回は、動中の禅をプロセス主義や結果主義の考え方を基に考察し、さらに無分別の分別という仏教の考え方によって、動中の禅の全貌を明らかにしようとしました。


 1.結果主義とプロセス主義
 このような文章によって、動中の禅を述べることが、いったいどんな意味があるのでしょうか。「担雪埋井」(注1)の修行であると自らに言い聞かせながら、無限の原野を右往左往しているといった状態です。考えては書き、書いては考え、停滞して落ち込んでいたり、思いもよらない構想がひらめていて、有頂天になったりする試行錯誤の連続です。

 書くという働きを通して混沌とした全体の一部分をハッキリと固定された文章にすることによって、考えを確認しながら、それを機縁にして、さらに新しい考えを書き足して展開していく。このような態度は文章表現における動中禅とでも云えるでしょうか。

 この「動中の禅」という標題のエッセイは、一回だけで終わりにしようと書き始めたのですが、あまりにも内容が複雑で、ついにその四まで書いて来てしまい、これで言い尽くすことができるのか甚だ心もとない情況です。いわば、やってみなくては分からないのです。

 このような態度を「プロセス主義」(または経過主義)と云ってもよいでしょう。このようなプロセス主義的考え方は、企業経営などで創造的な方法として最近話題となっていますが、ホワイトヘッドのプロセス哲学を基盤にしている考え方ではないかと思います。

 つまり、ある目標に向かって行動を起こします。しかし実在は人間の分別知(科学・倫理・哲学などの学問)だけでは到底計り知れない無限の世界ですから、必ず想定外の変化が起こってきます。その新しい変化や状況を適切にとらえ、それを機縁にして方向を修正したり、新しい考えを付け加えたりして、軌道修正しながら目標に到達しようとする。または目標さえも全く新しく設定し直していくということもあるのです。

 このように云うと無計画で、でたらめではないかという印象はぬぐえませんが、行動の経過を大切にしているので、極めて人間的で健康的です。特に自ら課題を見つけて解決していくという教育活動では中心的な考え方になっています。

 このようなプロセス主義に対して「結果主義」(または成果主義)は、物事を分析して論理化し、その固定された計画に沿って確実に行動をしていくことが求められ、途中の経過はともかくとして必ず結果を出そうとするもので、失敗は許されないのです。経済活動や最近のスポーツで、また政治や教育にさえも成果主義が横行して、人間性を阻害するような様々な問題を引き起こしているように思われます。

 さて、そうすると結果主義が悪く、経過主義が良いというような印象を受けられるのではないかと思われますが、これはどちらが良いとかいう問題ではないのですが、それは後ほど詳しく述べたいと思います。ただ、現代社会はどちらかと云うと結果主義に陥りやすいシステムになっております。また人間の分別心(分別知)は結果主義に陥り易い特質をもっていると言えます。したがって人間活動のあらゆる場面でプロセス主義を中心にする位にして丁度良いのではないかと思うのです。


2.分別知と根本知

 分別心(差別心とも云う)によって結果主義に陥り易いのは何故でしょうか。仏教の考え方に照らして明らかにしてみたいと思います。

 岡田利次郎先生(注2)によると、人間の特質である分別心(分別知)とは、見ようとして見る、聞こうとして聞く、考えようとして考える時に働く知恵で、こちら側に見る自分(自我)があり、向こう側に見られる対象があると想定して働く知恵だということです。(分別心と分別知の意味は厳密には違うと思われるが、分別心を分別知にまで拡大解釈して、ほぼ同じ意味として使用した。)

 仏教では諸法は無我であるととらえていますから、自己は無いのです。しかし私達は普通、自分(自我)が何となく在るように思っていますから、自分と自分以外のものと相対する関係ができ上がって、分別心が働くのです。また、分別心の特徴はいつも自分中心に有利になるように働くので、これが人間の争いや苦しみの原因となります。また、そのような相対関係により、対象を固定し、分析して、しかも固定された知識や理論、概念としてとらえることになり、そのようにしてでき上がったのが科学、哲学、倫理学などの学問と云われているものです。つまり見る、聞く、考える立場と、見られる、聞かれる、考えられる立場の、二つに分けて捉える方法をとります。したがって自分を固定させて対象を分析して、対象への思いや概念を作り上げ、それを基にして対象に関わろうとするのが結果主義的行動です。

 これに対してプロセス主義の背景となっている「根本知」(仏教的には無分別知とも云う)は、見ようとしないでも見てしまっている、聞こうとしないでも聞いてしまっている、分かろうとしないでも分かってしまっている知恵です。例えば、雀がチュンチュン鳴いているのを聞くと、雀の鳴き声であることが瞬時に分かってしまって、気にもとまらないのです。ものごとの動きに沿って、ありのままにとらえる直覚的方法で、このように働く知恵を根本知(無分別知)と云います。私達は根本知を始終働かせて生きているのですが、普通私達が知恵の全てだと思い込んでいる分別知の働きでは、その存在すら気がつかないのです。もともと根本知で分かってしまっているものを、あらためて見、聞き、考えるのが分別知というわけです。このような分別知と根本知(無分別知)の仏教論理によって、結果主義とプロセス主義の行動原理を明らかにしてきましたが、さらに動中の禅について焦点をしぼって整理したいと思います。


3.動きながらとらえること

 「実在は流転して留まることのない出来事の連続である」と西田幾多郎博士が述べています。出来事の連続としての世界(縁起)を、端的な言葉で示しています。

 縁起とは仏教の中心的な概念ですが、それは絶えず生滅を繰り返し、永劫の昔から滔々として止むことのない働きそのものです。私たちはその働きと共に生きている。または流転して留まることのない働きそのものが、私達の生命活動であると云った方がより適切かもしれません。

 したがって私達の活動は絶えず動きながら、動いている対象と一体となり、しかも絶えず変化しながら生きているのが真実ですから、文字通り物事を動きながらとらえて行動することが動中の禅です。

 しかし前述の結果主義のように、動き続けている全体の一点を切り取り、分析して論理化し、これからやってくる未来を予想して、というより始めから決めてかかることによって、ありのままの事実とは似ても似つかない不自然な事態が生じてしまうことにもなります。ここで本題と反れますが、縁起とは善悪を超えた仏法ですから、人間にとって不自然な不幸な事態も、そのように成る原因があり、当然成るべくしてなった縁起的結果であるのです。その多くは物事を固定して捉える分別知(結果主義)に偏った行動することが原因と云っても良いでしょう。


4.無分別の分別

 分別知は自分の周りの対象となるものを固定して観念的にとらえます。もう一方の根本知は自分の周りのものと自分が一体となって生きつつある知恵ですから、全ての物事を動くままとらえてしまっていると云えます。しかも対立のない無我・無心の境地ですから、動きながらとらえていることさえ全く知らないのです。一般的にどうとらえているか考えるときは分別知によるしかないのです。

 さて「無分別の分別」とは、鈴木大拙氏の即非の論理によるとらえ方です。無分別と分別は相対する概念ですが、ここでは無分別が分別に、分別が無分別に統一されております。そうすると無分別知(根本知)と分別知は切っても切り離せない裏腹の関係になっているのではないでしょうか。実際に私達の行動はそのようになっていると思われます。

 いままで述べてきたように、動中の禅とは、無我による無分別知(根本知)によって、滔々と展開している縁起の流れの一点である機縁を観じ、その機縁に乗じて臨機自在に行動することである・・・と。

 しかし、現実はこのような言葉だけでは言い尽くせない複雑さがあります。つまり無分別知を動員して行動を起こしますが、社会生活には様々な差別観や偏見・利害が横行して、より自然な働きが阻害されることが大部分で、必ず行き詰まります。

 従ってさらなる対応が迫られて、行動を修正するために分別知が働きだします。動中の禅を行じている間に、フツフツと現れてくる問題解決のための分別知を尽くして、さらなる実現に向けて試行錯誤が続くのです。そうして、分別知と根本知は即の関係で連動し、分別知は根本知の支えを得て、根本知は分別知の力を得て、互いに精彩を発揮し合いながら創造的な生き方を実現していく、これが無分別の分別としての、真の動中の禅ではないかと思うのです。従って複雑な社会生活に於ける動中の禅は、純粋に根本知によるプロセス主義だけでは実現は難しくなるのではないかと思います。


5.坐禅は動きながらとらえるための修練

 それでは、生きて動いている世界や自分を、動いたままとらえるにはどうしたらよいでしょう。その典型的な方法が坐禅です。数息観は、天地開闢の始めから時々刻々働き続けている呼吸活動に全心身を任せ、ヒトーツの時はヒトーツだけ、フターツの時はフターツだけ、時々刻々「即今只今の自己」になり切る修練です。また、公案の拈提は人間の特質である分別知を尽くし、そこを透過してはじめて、ありのままの働きとしての実在をとらえることができるのです。このような静中の禅による修練によって、日常生活に於いても分別知による結果主義に陥る危険性を乗り越え、「即今只今の自己」になり切ること、すなわち結果主義とプロセス主義を自在に操って動いていく、動中の禅が実現するのです。

 注1.担雪埋井;徳雪和尚は只ひたすら雪を担い井戸を埋めておられた。しかし雪は溶けてしまって決して井戸は埋まらないのです。「我」の産物である一切の目的をうち捨てて、今すべきことに邁進する、無目的の行為。

 注2.岡田利次郎;大正4年東京に生まれる。慶応大学医学部卒。内科医師。昭和34年より在家禅会担雪会を主宰。著書に「在家禅のすすめ」「正法眼蔵解読」等がある。

 注3.Aは非Aであるが故にAである。金剛般若経の最後で、この論理が繰り返される。



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