動中の禅5(無心と音楽芸術)


小論 桐 山 紘 一

はじめに

 釈尊が発見された真の実在は、後の人々の追体験によって般若の智慧として明示され、それは空としての縁起観という大乗仏教の根本思想となり、もう一方は如来蔵思想として開花しました。さらに中国へ伝播して天台思想に、また実践的な禅や浄土思想として結実しました。日本では生活に密着した生き方としての「道」に、また世界に例を見ない独特な禅文化の発展を遂げています。さらに救済仏教としての要素を加味した浄土思想は、民衆に開かれた仏教として究極の発展を遂げたといってもよいでしょう。

 さて、そのために一体どれだけの人々が関わってきたことでしょう。命を賭して修行を全うし、沢山の語録や教典を遺し、国を超えて往来し、仏法布衍に尽力された人々は恒沙の如くであります。

 私たちは、このような潮流を一身に受けて、「今ここ」で、仏道を行じているのだということを、しみじみと思うのです。

 釈尊から代々受け継がれた法の恩恵に浴することができるということは、百千万劫難遭遇の機縁だと言われています。動中の禅を実現するには機縁を観ずることであると、前稿までに述べてきましたが、仏教についてのこのような概観や感慨をもつことは、修行をより真摯なものにしていくための機縁になると思います。

 道元禅師は次のように述べておられます。「今我等宿善の助くるによりて、已に受難き人身を受けたるのみには非ず。遭い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし・・・」と。


1.無心ということ
 これまでに、動中の禅を実現していくためには、自尊心や馴れ合い、慣習にとらわれない自由な意志である「無心」が求められると述べてきましたが、ここで「無心」について少し概観してみたいと思います。

 インドで開花した「空」の思想は、中国の老荘思想等と相まって、実践的な「無」の思想として結実しました。禅の修行によって経験される「無心」または「無我」と言われるものは、言わばそれ自身何も無い、相や形の無いもので、「無相の自己」などと言われているものす。このように言うと、無心とか無我という何か心理的状態があるのかというと、その様なものも全く無いということにもなります。

 無心は形も色も香も無く、言葉も論理も入り込む余地がないのですが、ひとたび転換(自覚)すると、美しい色や香りとなり、絶妙の姿、形となり、また日常の些細なことが全く新鮮な働きとなって蘇り、言葉は実在と連動して生き生きと働き出すことになります。したがって無心は何もない空虚なものではなく、ありとあらゆる事態に乗じて、働き続けていている「そのもの」で、人間のはからいや、とらわれを超えて生き生きと働き続けている命そのものであると言えます。その様子を臨済禅師は次のように述べています。

 「仏は無依より生ず」

 「無依の道人、境に乗じて出で来たる」

 「無形無相、無根無本、無住処にして活発発地なり・・・」と。

 また、禅というと、静寂とか簡素であるとか、神秘的であるとか言われることがありますが、もとより無心ですから、そのような固定された雰囲気や概念は根本に於いて全くないのです。もしそのようなことがあるとするならば、永年培われた風土的国民性といったものが、禅を通してさらにクローズアップされたのではないかと思うのです。しかし、あえて言うならば、禅は静的であるというよりは、むしろ動的であり、絶えず変化し続けている働き「そのもの」であるということです。まさに無心の働きそのものが動中の禅ということになります。


2.禅と音楽
 釈尊の教えに端を発した仏教は、中国に伝わり禅として開花したのですが、中国では禅を契機にして漢詩がめざましい発展を遂げています。しかし何故か音楽芸術面では発展していません。さらに日本へ伝わり武道や茶道、建築、俳句文学等々に素晴らしい発展を遂げていますが、やはり日本でも禅と音楽芸術・芸能に関しては、世阿弥の花伝書以外は、皆無に等しいと言ってもよいでしょう。しかし江戸時代を中心にして発展した日本伝統音楽を代表する邦楽は、厳しい鍛錬道としての様式を確立しているに違いないので、禅による音楽芸術の発展が見られないというのは、単に音楽芸術の禅による評価や哲学が無かっただけのことかもしれません。さらに今後の研究を待ちたいと思います。

 「禅と音楽」と言うと、まったく別のものが相対しているように思われますが、音楽表現そのものが禅であり、禅が音楽表現そのものですから、音楽禅、または音楽道と言った方が相応しいのですが、分かり易く説明する関係上、とりあえず「禅と音楽」ということにしておきます。

 無心は、生き生きと働き続けている「そのもの」ですが、音楽も音とリズム、メロディーなどによる動的時間芸術で、茶道や武道と共に最も禅に近い芸術です。したがって、これらはすべて静中の禅(坐禅)に対する動中の禅であると言えます。

 さて、音楽禅と言っても、特別な禅の音楽と言ったものがある訳ではありません。禅の内容としての「無心」は、ありとあらゆる事態に乗じて、生き生きと働き続けている「そのもの」ですから、音楽文化発展の流れに応じて、また自然や歴史文化や個人の特性・国民性に応じて、千変万化しながら、必然的で豊かな音楽芸術を創造していく原点となっているのです。


3.ジョン・ケージの禅の音楽
 近年、アメリカに於ける禅の発展はめざましいものがありますが、作曲家ジョン・ケージ(1912〜1992)による「禅の音楽」と称せられる作品は、あらゆる音楽様式や意図を排除して、演奏家の気分に委ねた偶然的な音の羅列であったり、街頭に出て巷に溢れている偶然発生する騒音までも含めた音楽を創り出したり、演奏家はピアノの前に座ったまま4分33秒を無音で過ごし、いつ始まるかと固唾を飲んで耳を傾けている聴衆の、わずかな雰囲気やささやきを感じ取るというような趣旨の音楽を創り出したりしました。これが前衛音楽として音楽界に一大センセーションを巻き起こしたのです。彼はそれを実験音楽と称し、現在でもそのような音楽に取り組む芸術家は後を絶ちません。

 実際ジョン・ケージは禅の修行をどのようにしたのか分かりませんが、禅の哲学に基づいて音楽を創造しようとしたのでしょう。あらゆる音楽様式や意図を取り去って、まったくゼロの立場から生きている実在を見つめ直し、そこから蘇って新しい音楽を創造しようとしたのでしょう。彼の表現が音楽芸術であるか無いか、評価は二分しているところです。しかし残念なことに禅の立場からの批評が全く無いことを見ると、禅が如何に音楽芸術に無頓着であるかが伺われます。

 先に述べたように音表現そのものが禅であるという視点からすると、ジョン・ケージの「禅の音楽」は、明らかに「無心」を曲解した音楽ではないかと思われます。しかしながら、さらに次元を高めて概観すると、「無心」は音楽芸術として素直に認められない、偶然的実験音楽と称する事態にさえも自由自在に出入りして、偶然的実験音楽になりすましているとも言えるのです。


4.禅と音楽表現

 音楽を演奏する時は、このように表現したいという「はからい」「意識」が働きます。それが却って「とらわれ」となって、部分に力が入りすぎて、身心のバランスを崩したり、豊かな表現を阻害したりすることがあります。また演奏会などでは様々なプレッシャーがあるわけですが、それが「とらわれ」となって、日頃の成果や実力が発揮されないことがあります。それを越えるには厳しい鍛錬を繰り返し、言葉や概念を越えた「無心」の表現に到達しなければなりません。名演奏家と言われる人はこのような「意識」や「はからい」を持ちながら、尚かつこれらを越えて働いている命を直覚して、素直にそれに従うことができるのですが、これは中々容易なことではありません。しかしこれが鍛錬道としての音楽禅ということになります。

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは葉隠れの一節ですが、本当に命を捨てて一直線に向かうことができれば、全ての「とらわれ」を振り払い、実在に密着した強靱でしかも自由自在の働きができるものと思われます。命を捨てる覚悟をもってやれとは、武士道であるからこそ親しい言葉で、それが禅と武士道が結びつけた大きな要因でもあるわけです。しかし私達の日常生活や音楽演奏に於いても大いに教訓となる言葉ではないでしょうか。

 沢庵禅師の不動妙智心録は柳生但馬守に送った書簡ですが、剣術における心の置き所を次のように述べています。

 「もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用は欠くべきなり。思案すれば思案に取らるる程に、思案をも分別をも残さず、心をば総身に捨て置き、所々に止めずして、其所々に在て用をば外さず叶ふべし・・・」と、云々。これは禅を修行した立場から、禅の言葉で剣術を指南したもので、これを実現するには大変な鍛錬を必要としますが、全く音楽の演奏についても当てはまると思います。


5.無心への参入

 無心は禅の修行によって体現される境涯で、言葉や概念だけでこれを捉えることは不可能でしょう。諸芸道に於いても厳しい鍛錬という行によって、極意を達成し無心を体得することができるはずです。そのときは沢庵禅師の例のように、禅が大きな助けになります。それはその心を指し示す目標であったり、心構えであったりするのですが、それがあるか無いかは重要です。単なる技術の習得で終わるか、人格の完成まで含めた芸道として完成するかという大きな違いがあるからです。

 山岡鉄舟は、厳しい剣術の修練によって抜群の強さを獲得した上に、禅の修行を併修してその奥義を極めたのですが、禅によって剣術を人間の生き方まで含めた武道にまで高めた功績は甚大です。鉄舟の生き方を動中の禅という視点からさらに見ていきたいのですが、後日を待ちたいと思います。

 さて、私の音楽表現である、いわば作曲道について述べてみたいと思います。

 作曲の動機は、あるコンサートのためであったり、ある演奏家のためであったり、自ら湧き上がってくるイメージをもとにした表現への意志であったりで、一様ではありませんが、何れにしてもあるイメージや目標をもって、それに向かって取り掛かることになります。そのような目標をもつこと事態が限定することですから、「はからい」であり、いわば決定的な「とらわれ」と言ってもよいでしょう。したがって、それに向かっての格闘が私の作曲道ということになります。作曲というと浮かんできたメロディーを書き取っていく楽しい作業のように思われるのではないかと思います。或面ではそのようなこともありますが、より自然な美しい曲にするために、試行錯誤が続くのです。

 数日前にこんなことがありました。メロディーとそれに対する伴奏を工夫する段階で、どうしても納得する構成ができないのです。その一箇所がまとまらないために、もう一度全体を考え直したり、メロディーや拍子を変更してみたり、伴奏形を変えてみたりの悪戦苦闘が数日、夜中まで続きました。メロディーを変更すれば何とか解決できる見通しがついたのですが、ここまで来て、この曲の良さはメロディーが命であるから変更はできないという思いが逆に強くなったのです。考えてみればこれは無心などとは程遠い、がんじがらめの「とらわれ」ではないか。もしこの曲ができなければ已に演奏家は決まっているし、コンサートの予定はチラシで宣伝されてしまっているので万事休す。危機的な状態に陥って眠れない一夜を過ごしました。

 朝になって呆然としてビアノに向かったときに、鳴り響くハーモニーとメロディーが完全に一致しているではありませんか。頭で考えた構成にとらわれていて、何でもない自然な流れが見えなかっただけのことです。万事休して呆然としてピアノに向かった瞬間は、当に無心であったのではないかと思われます。その後、曲は一気に完成したのは言うまでもありません。このような取り組みを鍛錬道であると言えるかどうかわかりませんが、このことを通して気づいたことがあります。それは「はからい」や「とらわれ」は、向上への大切な心の働きであり、反対に実在を眩ます迷いともなるということです。

 「無心」とはそのような迷いを打破して、全ての活動を実在と一致させ、全てのものを生かす働きですから、それが動中の禅です。また、ある目標に向かって悪戦苦闘しながら、真実を発見しようとする鍛錬道も、無心への道ですから、これも動中の禅と言うことができます。


6.伝統音楽への傾聴

 無心は、音楽スタイルを限定するものではなく、世界中に無数にある音楽様式や方法に対応し、無限に創造していくものです。ただ、人々がどの音楽をやるかはその国の文化や歴史、言語、生活に深く関わってきます。私の場合、音楽の勉強(西洋音楽)をすればするほど、自分の中に育まれている感性から離れてゆくという矛盾を感じました。

 戦前戦後にかけて、幼き頃から体験してきた日本の伝統音楽(わらべ唄、獅子舞神楽、謡曲、邦楽、労働の歌を中心にした民謡など)の響きや味わい方が、私にとって最も親しく大切なものであることを発見したのは、だいぶ後になってのことですが、それは禅の修行に負うところが甚大です。日本伝統音楽のユニークな表現様式や日本音階から導き出されたハーモニーを駆使して、新しい音楽芸術を創造しようという、ささやかな試みですが、これが私の音楽禅ということになります。



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