動中の禅3(僧堂における...)


小論 桐 山 紘 一

 「動中の禅」とは丁度その時に顕現してくる「機縁」を観ずることにあること。それには、自尊心やなれ合い、慣習にとらわれない自由な意志、つまり「無心」が求められることを述べてきました。
 今回は、その考え方を元にして、僧堂に於ける動中の禅と日常生活に於ける動中の禅を具体的に探り、その関係や位置づけを明確にしたいと思います。



1.僧堂における動中の禅

 僧堂で行われる摂心では、坐禅の他に経行や作務、清掃、食事などがありますが、それらはみな動中の禅(動中の工夫)であり、坐禅と共に大切な修行として位置づけられています。日常生活の煩雑さから開放され、それぞれの活動が「動中の禅」になり易いように、日程や内容は極めてシンプルに、かつ合理的に工夫されています。
 また、活動はすべて鳴り物(喚鐘、版木、拍子木、鈴等々)によって進められ、その合図によって、修行者は直ちに行動に移るのです。つまり鳴り物による合図が全ての行動の契機となっているのです。そうして、動中の禅の目的である、即今、只今の自己になり切って、丁度そのときに顕現してくる周りの条件にぴったり一致した、適切でしかも俊敏な行動がとれるようにしていくのです。

 @間髪を入れず打つ喚鐘(かんしょう)

 独参は摂心で最も大切な修行です。暁天、朝、昼、夜、それぞれの坐の最後には、老師の元へ参ずる独参が行われます。老師の居る隠寮から、合図の鈴が聞こえると、役位の直日が間髪を入れず、「独参〜」と大声で宣言します。修行者達は坐禅を直ちに解いて、一斉に廊下の集結場所へ我先に素っ飛んで行き、順番に並んで待機します。のろのろしている人がいると、直日が激を飛ばすので、思案したり躊躇したりする暇はないのです。
 先に入室した修行者の独参が終わると、老師は次の修行者が来るように合図の鈴を鳴らします。次の修行者は鈴がいつ鳴るか、いつ鳴るかと固唾を飲んで待機しているのです。鈴が鳴ると同時に喚鐘を二点打って、老師の居る隠寮へ直行します。喚鐘を打つタイミングが少しでも遅れると、今度は役位の待者から、激が飛びます。
 耳を凝らして、隠寮から聞こえてくるはずの鈴の音に集中して、ひたすら待つことが次の行動に瞬時に結びつくのですから、これが大切なポイントです。まさに「待機」ではなく「対機」の方が適切かもしれません。


 A食事中は音を出さないこと
 食事作法は食事の価値そのものを具現するべく、極めて明快に合理的にできています。中でも食事中に音を出すことは御法度で、話をすることは勿論、食べる音、箸で突く音、食器がぶつかる音等は一切禁止です。(素麺などを啜って食べることは許される)
 特に食べる時には食器は必ず手に持つので、食べ終わって食器をテーブルに置く時に、食器とテーブルが接触して音が出るのですが、その音を出してはいけないのです。不注意に大きな音を出そうものなら、「音を出すな!」という激が飛びます。

 このように細心の注意をして食事するわけですが、そうすると動中の禅が実現してくるのです。何故かというと、音を出さないように注意している内に、食器を置く動作に気をつけて、必然的にゆっくり行うようになります。つまり、心が動作に沿って常に働き、動きと心が一致しして、動中の禅が実現していくからです。





 B 即今、只今の自己へ
 禅の修行は法身を体得することにあります。法身の別の表現が「縁起観」であることは先に述べましたが、それは永劫の昔から、この宇宙生命が大河のごとく生成流転し続け、それら全てを引き連れて、今、ここに「機縁」として顕現しているのです。
 このように云うと、大変な苦心、努力が必要だと思われますが、日常生活の煩雑さや色々の思いに振り回されている日常生活に比べれば、僧堂生活は実に単純明快で、動中の禅を行じ易くなっていますから、いとも簡単に動中の禅を身に付けることができるのです。  摂心が中日を過ぎる頃には、修行者は作務等に喜々として取り組むようになり、顔つきは生き生きとしてきます。頭の中のおしゃべりを離れて、心と行動が一致して、大海を無心に泳ぎ回る魚の心境と云ったところです。
 さて、坐禅で行われる数息観や随息観、公案の拈提等々は、ただ数を数える、または呼吸と一枚になる、公案になり切る、という極めて単純かつ効果的な修練です。それによって獲得した、とらわれのない無心を引っ提げて、坐禅から立ち上がって動中の工夫をし、さらに僧堂を出て、日常生活に、スポーツに、仕事に、機縁に乗じた「動中の禅」を行ずることによって、自らの力を最大限に発揮し、より充実した創造的な人生が実現されていくことでしょう。


2.菩薩行としての動中の禅

 禅の修行は法身を体得することにあります。法身の別の表現が「縁起観」であることは先に述べましたが、それは永劫の昔から、この宇宙生命が大河のごとく生成流転し続け、それら全てを引き連れて、今、ここに「機縁」として顕現しているのです。
 さらに、私たちの日常生活に現れてくる様々の事象も、これとまったく同じで、全てのことが相依相関し、無限に展開し続けている縁起として観ることができます。
 私達はその頂点である即今、只今の自己になり切ることによって、丁度その時に顕現してくる「機縁」を観じ、臨機自在に対応することができるのです。
 しかし、人間の活動は、そこに利害関係や単なる精神主義、幻想的な幸福論等々が付随し、複雑怪奇な様相を呈しております。そのような混沌とした縁起の流れの中で禅を行ずるわけですから、動中の禅とは、街頭に出て苦闘する菩薩行と言っても良いでしょう。
 臨済録に、このことを象徴的に述べている箇所がありますので紹介しましょう。


 「普化、常に街市に於いて、鈴を揺って云く、明頭来たれば明頭もて打し、暗頭来たれば暗頭もて打し、四方八面に来たれば旋風もて打し、虚空に来たれば連架もて打す、と。」


 訳:「普化は常に街頭に出て、鈴を鳴らしてこう云って歩いていた。たとえば差別でくれば差別で対応し、平等でくれば平等で対応し、四方八方からくれば旋風のように対応し、虚空からくれば連続打で対応する」と。・・・・ 臨済録 「勘辨」より。


 注:「街頭に出て常に・・・」とは、大衆の中に常に出て行って、衆生済度のために動中の禅を行ずる菩薩を表現しています。臨済禅師は神格化した普化を登場させ、さとりの内容である「動中の禅」を演出して見せているのです。


メニュー次へ動中の禅4
戻る 目次ページに戻る  戻る トップページに戻る