機縁を観ずること(動中の禅 その2)


小論 桐 山 紘 一

はじめに
 白隠禅師は「動中の工夫、静中の工夫に勝ること百千万倍」と言われています。静中の工夫は坐禅瞑想のことであることは明らかですが、それに対して、このように強調される動中の工夫とはいったいどのようなものでしょうか。また、動中の工夫と静中の工夫はどのような関係で展開されているものでしょうか。
 禅というと坐禅修行に打ち込み、動中の工夫についてあまり自覚しないままの修行をしてきたという私の反省の上に立って、動中の工夫の考え方、そのありかたを探ってみたいと思います。また、私の今までの生活や活動を振り返って、禅経験がそれらにどのように反映されているのか、動中の禅という視点から振り返ってみたいと思います。
 ※「動中の工夫」と「動中の禅」という言葉は厳密には同義ではないが、動中の工夫することが禅そのものであるとらえ、ほぼ同じ意味として使用した。
 静中の工夫によって、自己の思いこみやとらわれを離れると、全てが自己の顕現であり、自己が全てであるという壮大な世界が徐々に、または突如に開かれます。路傍の石ころ一つにさえ限りない愛着を感じ、自己を含めた全てのものが、善悪を越えて完全無欠に申し分なく、無限に展開していることを目の当たりにし、その不可思議な有様に驚嘆することにもなります。
 その実態をさらに精査していくと、縁起として必ずそのように成るべくして成っている空間的時間的な広がりが歴然として見えてきます。全ては縁起そのものであるとも言えます。※「空と縁起」参照



1.機縁を観ずること

 機縁とは縁起をさらに実践的に焦点化した言葉で、「動中の禅」の出発点です。「丁度そのときに」ということで、必然的に或物事が起こったり、或状態になったりするきっかけです。さらに機縁の連続が縁起であると言っても良いでしょう。
 道元禅師はそのことを「時節因縁を観ぜよ」という動的な言葉で説明しています。時節因縁を観ずる心をもって行動することが「動中の禅」ということに他なりません。また、それは禅の室内における修行の「即今只今の自己」という中心的課題でもあります。
 私たちは丁度そのときに顕現してくる機縁に沿った生き方ができているでしょうか。日常生活の慌ただしさに追われ、ありのままに生きる機縁を見逃していることが多々あるのではないでしょうか。そして様々な機縁の連続によって生かされ生きていることに気づき、感謝して生きることが「動中の禅」の基本です。
 丁度そのときに顕現してくる機縁を見るには、自己のあらゆる経験的な知識や概念、とらわれを一旦離れていることが必要で、自尊心やなれ合い、慣習にとらわれない自由な意志、つまり「無心」が求められます。それは「静中の禅」を中心にして培われた気づき(自覚)によるものでしょう。
 したがって、このように「静中の禅」によって培われた全体感(縁起観)は、「動中の禅」である機縁(即今の自己)によって無限に展開されていきます。それは人間のすべての行動、つまり日常の些細な行動は勿論、経済活動や政治活動、さらに科学や芸術に至るまで「動中の禅」として無限に展開されていきます。勿論個人の活動としては限定されていて、全てに渡ることはできませんが、しかし日常の些細な行動にまで、その全体が深く関わっている事実をとらえることができれば、白隠禅師の百千万倍という言葉は大げさでもなんでもなく、当を得た表現であると理解されます。
 さらに「動中の禅」は「静中の禅」によって反省補強されるという円環運動を成して、更なる新しい創造的な縁起として無限に展開していくことができるでしょう。
 次ぎに、動中の禅を端的に表現した臨剤禅師の素晴らしい言葉を紹介しましょう。

 「(ただ)()く縁に随って旧業(きゅうごう)(しょう)任運(にんうん)衣装(えしょう)を着けて 行かんと要すれば行き 坐せ んと要すれば坐す。」(臨済録 示衆)

 ※ 要約;縁起を観じて、なれ合いや思いこみ、とらわれを離れ、機縁に乗じて、自己の立場や経験や能力を総動員し、そのものになり切って、丁度そのときに必要なことを行じていく。  次ぎに私の活動で、一つのプロジェクトの立ち上げから実現までの、3年間に渡る経緯を記しながら、動中の禅という視点から振り返ってみたいと思います。


2.機縁が熟した音楽芸能ホールの設立

 2008年、平成の大合併が進む中で、私の住む信州新町も長野市との合併に向けて大きく舵を切りました。完成して間もない3階建ての立派な庁舎は、支所としての機能をわずかに遺して、その殆どは必要無くなることになり、2階から3階までの近代的な施設をどのように利用していくかが検討され、公民館機能を移して図書館、調理室、視聴覚室、多くの会議室等が企画されましたが、3階の立派な議場については、これといって良い利用提案がないままでした。
 そこで私は議場を改修して音楽芸能ホールに改修したらどうか提案してみたのです。この町には体育施設は立派なものがあるものの、特に音楽芸術等の文化的環境については極めて脆弱であるからです。また議場は音響面では申し分なく、構造も議員席や傍聴席は階段状になっていて、居ながらにして観客席になっていること。さらに議長席を中心にした行政側の床は2段になっているので、1段部分の床を嵩上げする工事を少しすれば、適切な高さのステージになり、さらに後部の壁を取り払うと、キャパスティー300位の立派な中ホールにすることができると確信したのです。
 このような提案に対して、賛成してくれる人もいましたが、大変難しいと言う人が多く、行政側を中心に反対の意見が多く出されてきました。つまり合併を前にして予算的処置ができない。維持管理ができない。さらにそのようなホールを造ったとしても、いったい誰が利用するのか。こんな小さな町では必要ない。もしそのような必要があれば、長野市の中心街には立派なホールがいくつもあり、そちらへ行ってやれば良いといった意見まで出てきました。
 新しくホールを造るなどということは、この小さな町では大変難しいことですが、しかし議場の改修ならできるのではないか、この機を逃しては永久に実現しないことは目に見えています。何とか、このわずかな改修によって議場を新しいホールに再生して、過疎で低迷しているこの地域の文化力を高める契機にすることはできないか。私の掛け替えのない故郷であるからこそ、その思いは膨らんでいくばかりでした。



3.行かんと要すれば行き、坐せんと要すれば坐す(※臨済録より)

 そうこうしている内に、かつて高等学校を移転してできた跡地の利用をめぐって、陳情があったことが分かりました。それは主に母親達の思いが結集したもので、児童館とそれに付随したホールの設立を求めるものでした。しかしながらその跡地には、立派な庁舎と体育館が建設されたのです。体育館には小さなステージが付けられ、それは体育館をホールとして活用しようとする便宜的なものでした。音楽や芸能活動の会場にするにはあまりにも音響が悪く、付属設備は不十分で使い勝手の悪く、各種文化団体には不満がくすぶっておりました。
 そんな矢先に「議場を改修してホールにしたらどうか」という私の声を聞きつけ、賛同の電話をいただいたり、相談に来る人が出てきたりしました。それらの方々と相談しながら、曾ての陳情に取り組んだ方々や、各種文化活動団体に呼びかけ、20名余りによる賛同者を得て「文化ホール設置を進める会」が立ち上がったのです。
 早速各地のホールの視察や、専門業者による音響効果、改修方法、ホールとしての設備、必要経費等について調査・検討が進められました。そしてホール設置への可能性や必要性を訴えた陳情書が作成され、約60名の賛同者名簿と共に、行政と議会に陳情書が提出されたのです。
 議会では満場一致で採択され、行政側の何らかの対応が約束されました。行政側と設置を進める会の合同検討委員会も開かれ、ホール改修設置へ向けて具体的な検討が進められたのです。庁舎改修費の一部を活用して、公民館施設として名前は視聴覚室ですが、実質的な小ホールが完成したのは、それから3ヶ月後のことでした。それ以来多くのコンサートや芸能イベント等々が盛んに開かれるようになったのは言うまでもありません。
 このホールができたことを契機にして、この思いを同じくする方々によって、「コンブリオ信州新町」という音楽芸能芸術愛好会が設立され、様々な活動が展開されていくことになります。
   ※「コンブリオ」イタリア語の音楽用語。「元気よく生気に満ちて」という意味。
 庁舎改修を契機に、適切なホールが無いことへの町民の不満やホール設立への思いが集約され、行政がそれに応えて少ない予算をやりくりして、議場が新しいホールに蘇ったのです。この一連の経緯を振り返ってみるに、丁度その時に顕現してくる機縁に乗じて、私一人ではなく、多くの方々の思いがまとまり、当に「行かんと要すれば行き、坐せんと要すれば坐す」という機縁の連続によって実現したのではないかと思うのです。


4.音楽芸術芸能愛好会の発足

 これまで、音楽芸術ホール設立への機縁に乗じて合併によって不用になった町の議場を 改修して、音響豊かな音楽芸術芸能ホールが完成するまでの経緯を、動中の禅という視点 から述べてきました。このようなホールができることを永年待ち望んでいた町民や各種文 化団体は、挙って新装なったホールを活用して、さまざまな活動をするようになりました。 さらに、これを契機にして、ホール設置のために尽力した人たちを中心にして、音楽芸術 芸能愛好会(後に「コンブリオ信州新町」となる)というボランティア団体が発足し、内 外のアーティストを招聘しての様々なコンサートが開催されるようになりました。

 ここ一年半程の間に行われた主なものは、「謡曲発表会」。女性コーラスによる「春をよ ぶコサート」ヴァイオリンとチェンバロによる「バロック音楽の楽しみ」。「フォルクスローレコンサート」。「母の日に歌うコンサート」。「七夕フルートコンサート」。2回に及ぶ「フ ォークコンサート」等々です。この他、各種文化団体の研修会や公演等が、このホールを 使用して活発に行われるようになり、音楽芸術芸能文化を愛好する機運が高まってきたように思われます。


5.フルオーケストラによる演奏会

 このような機運が高まってきた最中、長野市の行政方針である中山間地域の活性化の ために、「信州新町イヤー事業」を実施することになりました。芸術・観光・産業・交流等、様々の分野で、イベントなどを通して内外に広くアピールし、過疎化で疲弊している地域を活性化しようとするもので、少なからず予算が計上されたのです。
 芸術部門では、「信州新町能」「オーケストラ演奏会」「デザイン展」などが上がってきました。しかしオーケストラの招聘については、大がかりになり、予算、会場等を考えたとき、不可能ではないかという意見が大勢を占めました。
 確かに人口五千人程のこの小さな町で、多くの聴衆は期待できません。一般的にクラッシック愛好者は、総人口の三%と云われていることを思うと、この町ではせいぜい二百人の聴衆を集めるのが関の山です。沢山の費用をかけて演奏会が実現したとしても、聴衆がいないことにはどうしようもありません。しかもフルオーケストラの演奏会は、この町で行われたという記録はありませんし、オーケストラの演奏を聴いたことがある人は皆無に等しく、極端に愛好者が少ないこと。会場は議場を改修してできたホールでは、狭すぎて不可能ですし、60人以上の演奏者を乗せるステージは、この町には何処にもないのです。 どれもこれも実現不可能な条件ばかりで、断念せざるを得ない情況が続きました。
 しかし、信州新町イヤー事業として、又とないチャンスを生かし、音楽芸術の最大規模を誇るサウンドの素晴らしさを、多くの人と共有したいという思いは募るばかりでした。 この機会を逃したら、この町でのオーケストラ演奏は永久に無いだろうという思いで、ひたすら実現に向けて模索が続きました。
 禅は時に無窮です。窮しているときはそのまま窮していれば良いのです。これが動中の禅ということに外なりません。そうしている内に機縁が向こう側からやって来るのです。



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