タイトル「禾山老師1」


桐山紘一


 はじめに・・・禅を継続することの難しさ
 禅に志して修行を始めて、しばらくすると止めてしまう人が大変多いと思います。「去る者は追わず」で、「少し経験しただけも良いではないか。」「また何時かやってみたいと思う時があればそれでよい。」と言った声が聞かれますが、私は本当にそれで良いのか、在家禅のあり方に改善の余地はないのかと頻りに思うのです。それは一個半個の英傑を打出するという伝統禅の姿勢は良いとしても、もう一方の在家禅、大衆禅、そして大乗の衆生救済という使命感が薄くなっているのではないかと思うのです。
 私が坐禅を始めた頃のことです。勤務先の近くに在る曹洞宗の寺で行われている、週一回の坐禅会に参加しました。2年程続けましたが、いっこうに手がかりがつかめず、ついに止めてしまったことがあります。何を聞いても「只管打坐は姿勢を正し只坐っていれば、そのままで良い。」といった頼りないもので、今振り返ると、私の坐禅はただ「ぼんやり坐っているだけ」のものでした。それでも坐が全てであるから、これを続けていけば良いと自らに言い聞かせるのですが、そのような意志にも限界があります。ついに、私には坐禅は向いていないのではないかと思うようになり、坐禅を中断してしまったのです。
 
 経典の積極的読誦と坐禅の併修
 私がそのような時に、長島亀之助先生(正法眼蔵研究家)から「現成公案」を100回読誦するように言われ、取り組んだことがありました。読誦は経典の深遠な意味に心身を通して経験的迫るすばらしい方法であり、さらに全心身を動員した読誦が坐禅に反映して、より深まった禅定三昧になることを発見しました。正法眼蔵や般若心経、観音経等々を坐禅の始める前に、日々積極的に読誦することによって、私の坐禅が復活して深まってきたと思うのです。
 不二道場の摂心の折、こんな事を言われる方がいました。ある宗教関係の人に「貴方は坐禅には負ける」と言われたが、そんなことがあるのかというのです。坐禅を続けられるのは英霊底の漢であり、大憤志、大信根、大疑団を要するから余程の気根のある者しかできないということであれば、衆生救済を標榜する在家禅の存在価値はなくなることになります。
 私はその方に、次のようなことを勧めてみました。坐禅を始める前に経典の読誦を積極的にやること。その躍動感というか推進力を坐禅の中まで続けるようにして、積極的な坐禅ができるようにすることが大切である等々。またその最も効果的な方法として、西山禾山老師が在家禅のために提唱した「南無甚深般若波羅密多」を、できるだけ多く唱えてから坐禅に入ること等を勧めてみました。その後の様子は定かではありませんが、何らかの展開を期待しているところです。西山禾山老師の在家禅については後で詳しく述べたいと思います。
 
 純粋禅の弊害
 こんな標題を掲げると、純粋禅とは何かという定義から始まるべきですが、今は坐禅と読経や念仏などとの兼修に対するものとして、限定して考える程度にとどめておきます。もっとも釈迦牟尼会坐禅会でも、読経にはじまり、作務、食事作法等々まで含めると、広い意味で兼修禅ということになります。そうすると純粋禅は原理主義的な概念であり現実にはありえないことになります。
 私が問題としたいことは、純粋禅を主張するあまり、読経などの助行の大切さがなおざりになっているのではないかと思うのです。本来、人間的な主観を大切にしていた仏教が、論の衣を着て純粋性を獲得してきた歴史的経緯をみれば、密教や念仏、禅が分離し、それぞれが相容れない独自性を主張するようになっていることは、仏教の新しいあり方を阻害しているように思います。伝統を大切にした上で、念仏禅も含めた大衆のための禅のあり方を実践的に探ってみることは、釈迦牟尼会の禅の良さを更に明らかにする上でも大切な姿勢ではないかと思われます。
 村上専精博士が大乗仏教統一論で次のように述べられています。
 「非僧非俗の親鸞上人の在家の生活と、道元禅師の行、住、坐、臥、四枚の般若の生活を合わせ、禅の内容を充実するならば、将来の宗教として世界を指導するものと成るであろう。」と述べられて久しい。しかしそれを発展させるような議論や実践が見られないのは、やはり純粋禅の弊害というものであろうか。
 
 西山禾山老師の大衆禅
写真「禾山老師」  不二道場に「獅子林」という禾山老師の豪筆が掲げてあります。これは、釈迦牟尼会の宗祖、釈戒光老師が禾山老師の元で修行成就して帰るに当たり、道場常住のたらいの裏に「布褌盥獅子林」と書かれてあり、それを記念に持ち帰ろうとしたのを禾山老師に止められ、代わりに道場に掲げてあった「獅子林」を与えられた。それが今の不二道場にある額だそうです。
 また、戒光老師の弟子である定光老師も、師の命を受けて禾山老師の膝下に投じました。そして釈迦牟尼会の公案体系の中には、この禾山老師創始の公案がいくつも入っており、今もなお禾山老師の鉗鎚を受けられることは大変有り難いことであります。
 当時(明治時代)出家仏教が民衆の心と遊離して、特に禅にあっては在家禅を一段低いもののように見下す弊があり、在家者の参禅入門なり帰依なりを進めるのに積極的ではなかった。そのような中にあって、禾山老師は在家禅の普及に尽力され、般若三昧を中心にして、自力門も他力門も、ないし鈍根、凡下も、利根勇猛の専門修行者も広く摂取統合しようとされたのです。
 
 西山禾山老師に相見する
 不二道場の廊下の書棚に「西山禾山」(田鍋幸信編)があるのを発見したのは、不二道場が改築され、東京道場から書籍が移転されたときであった。何気なく手にとって見ると、冒頭には禾山老師の肖像写真があり、その風貌に並々ならぬものを感じた。
 また「禾山笑」という標題が付いた平櫛田中作(木彫)の写真も掲載されており、「笑い」とはこのようなものであろうかと、「我笑えば則ち天も笑い地も笑う・・・」(禾山老師創始の公案)の禅機そのもので、実に躍動感のある作品である。この像は禾山老師が住持した伊予八幡浜の大法寺寺宝になっているというので、是非いつか訪ねて、実物を拝見したいと思っている。
 さらに、衝撃的な写真が掲載されていた。それは金襴法衣を着た老僧の肖像画、それは紛れもなく禾山老師の肖像画であるが、お顔を中心に墨で乱暴に塗り潰されているのである。私は誰かが本に悪戯書きしたのではないかと憤慨したが、墨絵の肖像画が前ページに掲載されているのを見ると、どうもそうではならしい。 読み進む内に解ったのですが、後任の某氏が永久に記念すべく、禾山老師の肖像を絵師に命じて描かせ、表装して老師にお目にかけると、すぐさま机上の墨を引き寄せ、このように墨を塗ってしまわれた。その後この肖像画は廃棄されたことになっているが、戒光老師の手には入って秘蔵品となっている。顔貌の一向に解らない肖像画ではあるが、心眼を持てる人には、好記念物であろう。
 たぶん墨染めの衣で通した禾山老師にとって、金襴の袈裟や法衣が余程気に入らなかったのであろう。
 肖像写真と「禾山笑」の木彫写真、墨で塗りたくられた肖像画の三点を拝見して、ここに禾山老師のすべてが顕われており、これは、編者田鍋行信氏の長年に渡る資料収集という仏行、苦行によって編集実現されたものである。 私はそれ以来、時々この本を開いては禾山老師に相見し、親しく鉗鎚を受けたのである。というのは、時を同じくして私の室内は禾山老師創始の公案「禾山疾病」であった。
 この公案は明治三十七年七月、不顧庵禾山玄鼓老師は中風にかかり、半身不随となり、言葉もままなる状態となった。弟子達の驚きはひとかたならず、ひたすら看護につとめた甲斐あって、みごと回復された。この「禾山疾病」の公案は病が回復して第一番に、当時膝下にあって獅子林の四哲と言われた寛慶・節潭・秀戒・戒光(釈迦牟尼会宗祖)に示されたものである。(秋月龍a著「公案」筑摩書房) このように禾山老師は自ら公案を創始して、修行者の気根に応じ、臨機応変に公案を駆使したのであろう。
 
 西山禾山老師の生い立ち、そして出家
 禾山老師は伊予の国、西宇和郡穴井の人である。俗姓は須賀氏。天保八年十二月二十四日、父吟助・母徳の第四子として生まれる。半農半漁を生業とした父は、大変厳格な人で無病にして百三歳で没した。禾山老師は幼少より俊敏にして才気に溢れ、思いやりがあった。
 十三歳のとき、八幡浜大法寺瓊谷禅師の徒弟となり剃髪得度。しばらくして大いに思うところあって、「郷に帰り兄弟と同じく父母に孝養を尽くしたい」と、父に手紙を送った。父これを見て大いに瞋り。厳訓をしたためて母に託した。母は八幡浜に至り、連れて帰ることはできないことを述べたが、禾山はどうしても帰りたいと懇願したので、母は父の手紙を渡した。「手紙を読んで、それでも帰って来るようなことがあれば、手打ちに致すものなり・・・と。」母は「父はすでに心を決めている。この上はおまえの好きなようにせよ」と。禾山は帰郷しても無益であることをさとり、厳訓にしたがう旨を父に告げた。
 父母は禾山の才気あることを見て、子の将来を思い、断腸の思いで出家させたのであろう。 黄檗希運禅師は、自分のために溺死した母のために「一子出家すれば九族天に生ず、もしこれ亡語ならば、諸仏も亡語」と言われた。禾山老師も父母のために決死の覚悟をもって厳しい修行に臨んだのではなかろうか。
 
 需・禅の参究
 禾山は十八歳の時、豊後佐伯養賢寺に掛錫して文字を学び、続いて府内竹内壽平(蓬州)に従って需典を学ぶ。居ること四年。その後八幡浜に帰り、上田禮蔵に従って更に需を究める。方向を転じて宇和島金剛山韜谷和尚に就いて経論を究める。 時に金剛山先住の晦巌和尚が野川吉祥寺に隠退していた。禾山を召して、「金剛山に居ても無益である、ここへ来て我に随従せよ」と。この慈意に従って吉祥寺に転じ久しく教えを受ける。晦巌和尚は特に禾山のために楞巌経・維摩経を講じた。勉励すること十年。晦巌和尚ある時、禾山に諭して言った。「汝ここを去って参禅せよ」と。晦巌和尚の勧めに従って、筑後梅林寺の羅山を訪ねた。禾山二十九歳。しかし羅山すでに隠退しており、若くして示寂。
 その後、濃州に行き、伊深正眼寺にて雪潭に参ず。幾ばくもなく雪潭は退隠したので、そこを去って西京の相國寺に於いて越渓に見えんとするが、越渓は已に僧堂を退き乾徳院に遇しており不在であった。
 そこで後任の獨園禅師に参禅精励すること久しく。一日雷鳴を聞き豁然として大悟、手の舞足の蹈む所を知らず。しかし越渓の動風を慕うこと已みがたく、越渓が妙心寺に移ったのを機に、禾山も妙心僧堂に転錫。自ら破庵主と称し、すべてを擲って渓室に参じた。渓その陰涼樹たることを知り、痛く穿鑿を加えた。禾山もまた不惜身命であり、何時でも入室を許された。ここに至って修行事了畢。八幡浜大法寺に帰り住職、時に三十七歳であった。
 河野廣中氏は追想文の中で次のように述べられている。
 禾山老師のその偉大なる風格と非凡なる学才は、越渓老師の深く驚嘆推奨するところであり、自分の弟のように優遇尊重しておられた。
 越渓下の弟子には多数の俊才があったが、自分の後継には禾山和尚をおいて他にないと言い、これを禾山和尚に説かれた。禾山和尚は幾度説かれても頑として固辞して、これに応しられなかったのである。禾山和尚は元来、法務などの五月蠅ごとは大嫌いで、これに応じられなかったのである。
 「生い立ち・・・」から「需・禅の参究」までは、禾山老師の「自伝」(文語体)と、小畠文鼎による「愛媛県大法寺禾山禅師伝」(漢文)の二つの文を補足し合わせて、ほぼ全てを網羅して現代文にしたつもりですが、文体が乱れて読みにくいこと頻りです。後日を待って整理したいと思います。御判読をお願いします。
 
 名利を捨て帰山
 妙心寺越渓の室内を終え印可を授かった禾山は、後継として残留してほしいという越渓の依頼を固辞して、伊予八幡浜大法寺へ帰山。瓊谷の後を継ぎ大法寺第十八世となった。時に禾山三十七歳の時でした。
 さて、越渓の寵愛を受けながら、将来は館長までも約束されたと言える禾山は、何故これを捨てて帰山という道を選んだのであろうか
 河野廣中氏は「禾山老師は法務などの五月蝿いことは大嫌いで、これに応じられなかった」としていますが、大法寺は八百軒の檀家を有し、法務は大変であったことを考えると、そのような細事ではなく、行と学を窮め尽くした禾山は、この時已に衆生救済(在家禅)への思いに燃えていたのではなかろうか。
 また、大法寺伝に「当時廃仏毀釋論によって天下騒然、禾山老師は『破庵主貽厥』『三可論』を表して時情を警醒した」とあります。明治維新という時代を迎え、専門僧堂の禅を飛び出して、新しい時代に相応しい民衆のための禅に向かったのではなかろうか。
 また、妙心寺僧堂の大衆に垂示して「禾山は幾度か館長になるよう進められたが、館長になるような罪は作らんが、雲納等の修行の為なら身命を賭して入室を聞こう」と。このように名利を求めない禾山の生き方を見れば、越渓の依頼を固辞して帰山したのは当然のことと思われます
 越渓は、この帰山に際して深遠な詩を付して禾山を送り出しています。
 鐵鞋今日帰家舎。脚下諸方不得窺。深興白雲休隠坐。奉身塵刹無縁慈。
 さて、時を同じくして、太政官から各宗派館長に向かって、「これからは一般公衆に向かって布教すべし」という布達がありました。
 禅宗は専門の僧堂で師家が雲水に向かって行う専門の提唱であり、一般公衆に向かって説教するということは殆ど皆無であったから、禅宗の説教は通俗化して、ともすれば真宗風の説教に落ちてしまうのを、禾山老師は憂慮されて、「般若三昧」「金鞭指街」「在家安心鈔」「檀徒日課念誦」等を著しました。それらは一般檀信徒にも信証不二の法門を広く修習できるように、懇切丁寧に説かれ、「南無深甚般若波羅密多」を本宗称念の標的とされた。その中心主題である「般若三昧」については後に詳しく述べたいと思います。
 
 焦面大鬼王
 明治十四年九月九日の夜半であった。大法寺本堂から出火して、瞬く間に伽藍一面火に包まれた。禾山老師は人々が止めるのも聞かず、忽然として身を躍らし大火炎の中に飛び込んでいった。人々があっけにとられて見ていると、やがて禾山が満身焔をたて、生き不動となって表れた、耳からも頸からも火を吐いている。この大火傷で誰も回復できるものとは思わなかったが、不思議に一命をとりとめたが、相貌は運慶作の仁王の折伏相と変じた。自ら「焦面大鬼王」と称しておられた。  禾山が心頭を滅却して火焔理に飛び込んだのは、ただ一冊の碧巌録を持ち出そうとした為であった。こ碧巌録というのは、本師越渓老師の直筆で、書き入れのあるもので、禾山が印可を授かったときに越渓老師から頂受されたものです。しかし持ち出すことができず焼失してしまいました。その燃えるのを見て「痛哉快哉」と呼んだという。この一語千金・・・・・(長井石峰 記)
 時に八十歳の老越渓はこの話を伝え聞いて、「禾山もさぞ困るであろう」と、更に再び書き入れをして贈ろうと、市中にて余白のある版本を求めたが適当なものが無かったので、「それでは全部筆写してやろう」と言われ、碧巌録百則の全文は勿論、越渓老師獨見の註解をも記入されて、禾山老師に贈呈されたのです。禾山老師にとってはこれ以上の記念物はないのである。
 その後、禾山老師は高弟の戒光(釈迦牟尼会宗祖)が雲照寺にて、第三回夏季大接心を開催することを聞いて、「この碧巌録を贈るから、これまでの講本を中止し、これによって講じてもらいたい、そうして本光軒越渓老師に供養をしてくれ」と。その書状には「戒光老師の願力堅固なるに随喜して贈呈す」とある。
 戒光老師は茶話のとき、起ってこの碧巌録を持ってきて、一寸中を開いて見せられたが、版本に異ならぬ丁寧な筆跡、字々法嗣を思う至情が躍動している。この美談を目の前に開展され、ただ感涙にむせぶのみであった。(雲照寺茶話より)
 大法寺火災後復興に当たり、或檀信徒から「院号を頂ければ一力で再興します」という要望があったが、禾山老師は「金では法は売らんわい。檀徒の寺だ、檀徒全体の協力を得る。金の無いものは灰掻きでも、破損瓦の一枚でも取り付けよ」と、大火傷の病床呻吟の中で言われたという。
 禾山老師は自ら大罪人だと称して、寺を焼いたことを悔やみ、心を痛めておられたが、多くの苦難を克服して七年後の明治二十一年再建成就した。
 
 禾山老師の応化
 写真「和光」学僧は坐禅をせず、禅徒は教学を軽視するのが世間の通例であるが、学識禅定兼備された禾山老師は、近隣の禅会は勿論、ある時は秋田の仏教界から、ある時は東京の禅会からの要請で、参禅摂心会や提唱、講演会へと寸暇もない禅師であった。その様子を山田無門老師は次のように評している。
平素は極めて沈毅寡言であったが、一度講座に上るやいなや、滔々として厭くことをしらなかったという。特に臨済録の提唱となるや、矍鑠として意気壮烈、臂を張り眉をつり上げ、面容赫々として怒るが如く、音吐朗々として洪鐘の如く、聴く者凛然として敢えて仰ぎ見る者も無かった・・・云々。
 東京の「道友会」よりの要請に対して、禾山老師は九十一歳の父を置いて、長期間に渡る結成に参加することに躊躇せられていたが、厳父は「手を拍って喜んで言われたという。「行け、和尚を出家せしめしことは今日あるが為なり、わしが老骨の故をもって遅疑することなかれ」遂に東上を決意された。
 上野の一支院をもって仮道場とし、麟詳院を講堂に見立てて、毎日午後三時より提唱を始めた。その聴講者は百人を越えたという。摂心は午後七時より仮道場で開單し、午後十時まで行われた。主なる会員は河野広中、千葉立造、三遊亭園朝、今泉雄作等々三十人に及んだ。この摂心は1ヶ月以上続けられたが、このような摂心は東京で2回行われたが、多くの政治家や芸術家等々が参集して盛会であった。
西山禾山老師の在家禅「金鞭指街」へつづく

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