タイトル「禾山老師2」


桐山紘一


 「西山禾山老師の在家禅」に続いて
 明治初年、太政官から各宗派館長に向かって、「これからは一般公衆に向かって布教すべし」という布達がありました。
 禅宗は専門の僧堂で師家が雲水に向かって行う専門の提唱であり、一般公衆に向かって説教するということは殆ど皆無であったから、禅宗の一般公衆への説教は通俗化して、ともすれば真宗風の説教に落ちてしまうのを、禾山老師は憂慮されて、大法寺に帰山してから、「金鞭指街」「在家安心鈔」「檀徒日課念誦」等々を著しました。それらは一般檀信徒にも信証不二の法門として広く修習できるように、懇切丁寧に説かれています。
 禾山老師が「金鞭指街」を著したのは五十四歳のときですが、その中心主題である「般若三昧」は生涯一貫した教えであります。いわゆる「南無甚深般若波羅密多」を本宗称念の標的とされ、それを念誦・修習して自己本具の般若を信證するにあります。これは、専門家でなくても在家のままで如来の大知大悲に携わることができるという、在家禅の革新的なあり方を提唱されたのです。
 次に「金鞭指街」の全文を記し、「行」という視点から注釈をしたいと思います。原文は、カタカナや漢文の入り混じった書き下し文ですから、返り点等を出来るだけ排して書き下し文に、カタカナはひらがなに、当て字等、必要に応じて現代漢字に直し、点や丸を付けて読みやすくしました。
 
 金鞭指街
 ○般若三昧安心要門

 至心帰命 常住三宝
 一切消滅 速成正覚 (三反)
 南無甚深般若波羅密多(なむじんじんはんにゃはらみた) (七反、二十一反、或いは無数反)

 右般若三昧は一の念誦法なり。安心要門と名づくる意旨如何。曰く、般若三昧即ち是安心の要門なり。所以に般若三昧安心要門と名づく。
 夫れ安心の要、他に向かって求むべからず。只自己本具の般若を信證するに在り。假使未だ頓に證すること能はざるも、自ら信得及し決定進修せば、当に親證の時節あるべし。其の方如何。般若三昧を修習する是なり。

 注釈:「金鞭指街」冒頭の念誦文には、念誦する回数の指定は無いが、姉妹編である「勸誠法要」には(三反)(七反、二十一反、或いは無数反)と指定してあります。この回数が三昧に至る「念誦法」として重要であり、本稿にも付け加えました。いわゆる冒頭の句を三辺、「南無甚深般若波密多」を無数繰り返し念誦修習して、三昧を得るのです。

 写真「円相」此に就いて二種の安心を立つ。所謂信位安心と證位安心なり。此の義、入三昧の下に至って辨ずべし。今の要する所は、専ら信位安心の機を攝取するに在り。
 涅槃経に曰く。「発心畢竟二不別。如是二心前心難」と。発心とは即ち是信心なり。今、甚深般若本来具有にして諸仏と同一体なりと聞き、深く心順して疑はず、念々進修して不退なるを信心と云う。若し此の信心無ければ、如何ぞ畢竟の妙覚を證せん。是れ前心難しと説き給へる所以なり。故に今の要する所は専ら信位安心の機を攝取するに在りと。涅槃経に曰く。所謂発心とは天台是を初住位に約して釈す。然るに今、発心とは即是信心なりと云は如何。曰く、我宗只見性を図る歴位断證は論へる所に非ず。今、此の文を引者は宜く劣下の機を奨励するのみ。教家の所談に不同なり。
 此れ般若三昧何の経文に依るや。大般若経第二分東北方品に曰く。我涅槃後後時後分後五百歳。如是般若波羅密多甚深教典、東北方に於いて大仏事を作すと。正しく此の文に依るなり。請い願わくは此の般若三昧、東北方に於いて大仏事を作す。展転して慈氏出世の暁に至らんことを。

 注釈:ここで見落としてはならないのは次の語です。「此の義、入三昧の下に至って辨ずべし」と。つまり、般若三昧の実習をすることが前提で、その上に立って、安心には「信位安心と證位安心があることを知り、不退なる信心を得ることに専念すること。専ら信位安心の機を修習することを強調しています。ここに至って、称名、念仏、唱念、称題、読誦、素読、音読等色々ありますが、「念誦」としたところが如何にも禅宗的で、深い思惑が有るように思います。
 
 ○至心帰命 常住三宝
 是れは帰敬の句なり。至心とは至誠無安の心なり。帰命とは自己最重の性命を尽くして最尊の三宝に帰敬するなり。常住とは無縁の大悲無息、常に世に住し給へるの義なり。三宝に三種あり。所謂同体別体住持なり。今、三種に通じて帰敬するなり。我等衆生現世の果報を観て、当に宿因の劣れるを知る。又現世の作業、恃むべき無ければ、当来の受報誠に怖畏すべし。三宝の哀救を蒙るに非ざるよりは、現当何ぞ安穏を得ん。是故に応に帰敬すべし。
 ○一切消滅 速成正覚
 是は発願の句なり。一切消滅し、速に正覚を成せしめ給へるの意なり。一切消とは開いて云へば、煩悩障、業障、報障なり。此れ三障に由って本具の三徳を障蔽せられ、無量劫来、枉(まげ)て諸趣に輪転するなり。其れ吾人分上現世にて疾病、患難、貧窶(ひんく)、短命、一切不如意の事。皆是報障なり。此の報い何れより来ると云うに、天の所作に非ず。神の所賦に非ず。過去世に於いて自ら因果を昧し、種々の悪業を造るに由るなり。悪業は即業障なり。此の業障何れより起こると云うに、痴惑に由るなり。痴惑は即煩悩障なり。此の三障相依って起こる。故に楞嚴経に、業種自然、悪叉聚(あくしゃしゅ)の如しと説き給へり。然れども三障は本空なり。三徳は本有なり。眞智一発せば三障非断にして断じ、三徳非證にして證す。是を正覚と成すと云う。又、見性成仏と云う。如何せん迷倒の衆生本空に達せざるに由るが故に、他の幻惑を被り、頓に本有を発得すること能わず。此の故に自ら三宝に帰敬し、一切消滅速成正覚と発願するなり。正覚は即三徳円満の称なり。分證も亦成小覚と云うを不妨なり。三徳は法身、般若、解脱なり。
 古徳曰く。此の三徳一如にして離れず。徳用分れて異なる。寂即之を照らし般若とす。照即之寂にして解脱とす。寂照の体を法身とす。一明浄円珠の如し。明即般若。浄即解脱。円体即法身。約用不同。体、相離れず。故に之三法。不縦不横不並不別。天の目の如し。世の伊に似たり。秘密蔵の名、大涅槃とす。(永明注心賦)
 且く通途の説相に約して辨了。其の實は法身を舉るときは般若解脱其の中に具わり、解脱を舉るときは法身般若其の中に具わる。今既に般若三昧と称するときは三徳即般若なることを知るべし。凡そ願あり行無きは其の願成せず。行有り願無きは労して功無し。其の願有り行無きは、譬えば帝都に入り帝王に見えんと欲して、而も歩みを運ばざるに同じ。奚そ帝王に見ゆる時あらんや。又行有り願無きは譬えば方向を定めずして東西に奔馳するに等し。徒に疲労を増すのみ。発願は即所期を立つるなり。三昧を修するは即所期に趣くなり。此の故に先発願して次に三昧に入るなり。

 注釈:「南無甚深般若波羅密多」を無数念誦するに当たって、その前の四句で心を整えます。「帰命とは自己最重の生命を尽くす」ということですが、なかなか大変な言葉です。それほど大切な最高の行為であるわけで、そんな難しいことは出来ないと思うかもしれません。しかし、「念誦」とは解釈することではなく、意味はだいたい分かれば良く、むしろ大切なことは誠心誠意思いを込めて「至心帰命 常住三宝」と、しっかり声を出して念誦することです。そのような念誦によって、「最重の生命を尽くす」ということが段々に実現することでしょう。
 「一切消滅 速成正覚」の発願は、願望の心を起こすことにあり、自らの果報に対する懺悔でもあります。従って真剣に、できれば坐禅の姿勢で、ゆったり堂々と思いを込めて念誦します。そして次の本題である「南無甚般若波羅密多」の念誦に進みます。

 ○南無甚深般若波羅密多
 是れは入三昧なり。此の一句、大般若経の要文にして、一切聖経の骨髄、諸仏の法印、吾人の本体なり。世尊初生下の時、大獅子吼して云く。天上天下唯我獨尊と。當時、早く已に個の甚深般若を布演するのみ。故に大智度論に般若是れ一法、仏種々の名を説く。諸仏衆生類の為に、縁に随って異字を立つといへり。
 甚深般若に南無の二字を加うるは何の意ぞや。云く南無は帰依なり、帰向なり、亦返照の義、返本還源の義あり。一切衆生無始以来、念々本具の般若に背き塵境に奔逸して還ることを知らず。而して今、如来の正法に遭い奉れり。善知識の化導に依り深く慚愧心を生ず。此の奔逸の念を摂して、本具の般若に帰依し、帰向し、返照し辺還するなり。六祖大師云く。自身自性に帰依し、眞仏に帰依すと。亦此の意なり。甚深は般若を讃するの言、又不共般若を顕すなり。般若此れに智慧と翻す。
 般若に三種あり、謂る實相般若、観照般若、文字般若なり。此れ般若三昧、即ち是れ文字般若なり。念々受持するは観照般若なり。受持の時、能念のあるを見ず。所念の般若あるを見ず。能所一如の當体、即ち是れ實相般若なり。三皆通して般若と名づくる者は何ぞや。云く實相の理、能く慧を発するが故に實相般若と云う。文字の教、能く慧を詮するが故に文字般若と云う。観照即ち是れ慧なるが故に観照般若と云う。今の主とする所は、實相般若に在り。即ち是れ吾人本具の自性なり。波羅密多此れに到彼岸と云う。謂く般若は生死も拘繋(こうけい)すること能わざるが故に、生死岸に従って越と云う。般若は生死煩悩に住せざるが故に涅槃彼岸と為すと云う。諸仏は是を證して諸仏と為し、菩薩は是を悟って菩薩と為し、衆生は是を昧して衆生と為す。此の故に云く。是れに迷うが如きは広劫に流転し、是れを悟るが如きは刹那に正覚を成すと。唯願わくは一切衆生、此の寶乗に乗じて直に道場に至らんことを。
 上来既に般若の義を説き了る。當に二種の安心を示すべし。この一段、最も緊要なり。般若三昧を立つるの意、正しく此こに在り。然れども安心、別に奇特玄妙あるに非ず。只信順して疑わざるを要とす。如何に信順するや。応に観ずべし。甚深般若は吾人の眞性、諸仏の本体なり。諸仏は已に是れを證して正覚を成し給へり。我等凡夫は未だ是れを悟らざるが故に尚生死に在り。然るに我等、何の慶幸ぞ。受け難き人身を受け、遭い難き如来の遺法に遭い奉り、此の般若三昧を修することを得たり。若し是れに依って修せば生死に即して涅槃を證し、色身に即して法身を成せんと。是の如く観察して、是の如く信順して疑わず畏れず。朝念暮念、此の三昧を修すべし。如何が修するや。云く、南無甚深般若波羅密多と。是の如く単提受持するなり。是れを入三昧と云う。
 證位安心とは如何。其れ受持の時、能念の我あるを見ず。所念の般若あるを見ず。純一無雑打成一片、只是れ南無甚深般波羅密多なり。是の如く念々不断なるが如きは、外三寶の本誓願に照らされ、内決定進修の三昧力に由って、無始以来の痴惑業障、自然にしょく除し、人法一如、能所共に恣するの時あるべし。是れを勝相現前と云う。然れども此の勝相に著すべからず。尚進修して不退なるは、念々般若、般若念々、念々無念。此の正念に和して、驀念(まくねん)として本明耀きを発し、迥然獨脱無得自在(けいねんどくだつむとくじざい)なるべし。是れを證位安心と人と云う。若し此の人にして、此の境界を證せん時、宜しく明眼の師に就いて證明を受くべし。然らずんば或いは魚目を認めて明珠と為し、賊を認めて子と為すの誤り無きに非ず。
 信位安心とは如何。只此の一句の甚深般若、朝念暮念、念々受持して怠らざるが如きは、假使(たとひ)今生、頓に本明耀きを発得すること能わざるも、三寶の護念力と般若の内薫住力とに由って、命終の時、業縁に牽かれず悪趣に堕ちず、速やかに善処に生じ、善知識に値い、乃至十方刹土、願に随って往生し、甚深般若を聞き、本具の妙慧を発し、自在解脱を得ること必定なり。如上の説を聞き、深く信順して疑わず。朝念暮念、念々進修して不退なるを信位安心の人と云う。
 二種の安心を立つ憑拠有るや。云く祖師西来唯一心印を伝へ給へり。我、此の般若三昧、亦但一法なり。而して祖師門下、皮肉骨髄を揀ぶを妨げず。我が這裏、何ぞ信證を分かつを嫌はん。法、元無二の機によって異あるのみ。古徳云く、行始を因と為し行終を果と為すと。是れを以て之を推すに、信位は行始にして眞因なり。證位は行終にして妙果なり。然れども信位に信所の境界は、證位に證所の境界なり。證位に證所の境界は、即ち信位に信所の境界なり。応に知るべし、信と證とは二にして而も一、一にして而も二なることを。今、殊に二種の安心を立てる者は、普く羣機(ぐんき)に応ぜんが為なり。若し只證位のみを立て、信位を立てざるは、鈍根の者、永く望みを般若に絶たん。若し亦、信位のみを立てて證位を立てざるは、利根の者を摂取するに由し無し。
 此の法門簡約に過ぎ、功徳或いは具わらざるに似たり如何。云く是れは只簡約を見て、妙旨あるを知らざるなり。明教大師、道わずや。我が宗簡妙を貴ぶと。其れ八万四千の法門、只此の般若の一法に収帰す。応に知るべし。此の一法を受持するの功徳、八万四千の法門、無量の妙義を受持するの功徳と正等にして異ならず。
 楞嚴三昧経云く。万種香擣(つ)いて一丸と為す。一塵焼いて衆気具足すと。又華厳経に云く。仏子よ、譬えば丈夫の小金剛を食し、終に消えず。要ずその身を穿(うが)って、出でて外に在るが如し。何を以ての故に。金剛は肉身雜穢と不同なるが故に。如来所に於いて少善根の種となる。亦復、是の如し。要ず一切有為諸行煩悩身を穿って、過ぎて無為究竟智処に至る。何を以ての故に。此の少善根、有為諸行煩悩と共に住せざるが故に。仏子よ、假使(たとひ)乾草を積んで須弥山と同じくす。芥子ばかりの火その中に投ぜば、必ず皆焼き尽くす。何を以ての故に。火能く焼くが故に。如来所に於いて少善根の種、亦復是の如し。必ず能く一切煩悩を焼き尽す。究竟無余涅槃を得る。何を以ての故に。此の少善根性究竟の故にと。
 幸いに此の明文あり。熟読玩味せば此の法門の簡妙にして、而も不可思議不可称量の功徳を具足することを知らん。宜しく信受奉行すべし。

 おしまいに
 坐禅を続けることの難しさから端を発し、在家禅を生涯追求された禾山老師の「般若三昧」に解決の糸口を捉えるべく、「禾山老師の在家禅をめぐって」と題して、延べ五回に渡って書かせていただきました。最後は禾山老師の「金鞭指街」の訳出をして、その本旨をより深く捉えようとしました。訳出と言ってもカタカナ混じりの独特の文体を読みやすく整理し、当て字等を現代漢字に、引用漢文を書き下し文にして読誦し易くしたつもりです。経典は読解することよりも心身を通した読誦によって、より深く体解するように書かれています。知的読解では同じようなことが繰り返し書かれていて、意味のないような文章に思えますが、坐禅の姿勢で、しっかり声を出して日々読誦三昧することによって、深遠法界への糸口をより経験的に掴むことができるはずです。
 一塵焼いて・・・芥子ばかりの火を投じて、須弥山程の煩悩を焼き尽くすことができると。芥子ばかりの火とは、所謂小金剛である般若三昧に他なりません。
もう一度西山禾山老師の言葉を熟読玩味して、この稿を閉じたいと思います。
「若し是れに依って修せば生死に即して涅槃を證し、色身に即して法身を成せんと。是の如く観察して、是の如く信順して疑わず畏れず。朝念暮念、此の三昧を修すべし。如何が修するや。云く、南無甚深般若波羅密多と。是の如く単提受持するなり。是れを入三昧と云う。」・・・・・不退なることを。

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