メッセージ集

 「神の愛」

            1994年 5/29 金子量昭

 

 「愛すること」というのは、どういうことでしょうか。聖書が言っている愛することと、社会一般で言っている愛することでは、違いがあるように思うんです。

 私が考える愛することと言うのは、「相手の必要を知り、それを満たそうとすること。」であると思うんです。

 愛することと似ている言葉に、好きという言葉があります。愛することと混同して使われていますが、好きというのは「自分の必要に相手があっていること」だと思うんです。自分がきれいなものがいいと思えば、きれいなものが好きになると思うんですね。自分は力強いものがいいと思えば、力強いものが好きになると思います。(中略)

 好きというのは、考え方が、自分中心的であると思うんですね。自分が何を好むか、自分が何がいいと思うか、自分から出ている。自分を中心とした考え方が、好きという言葉ではないかと思うんです。

 それに対して、愛するということはどういうことか。この日本語の愛するという言葉の中には、好きという意味が含まれているんですね。ですから、混同して使っているんですけれども、聖書でいう愛するということは、好きということと違うんですね。これは、好きが自己中心的なのに対して、相手中心的と言いましょうか、相手の必要を考える心であり、そして、自己犠牲的と言いましょうか、自分が不利になっても相手の必要を満たそうとする、それが聖書で言っている愛することだと思うんです。

 では、相手の必要を知るということはどういうことでしょうか。それを考える上でもう一つ、愛するということと似た言葉で、親切という言葉があると思うんですね。親切という言葉を、私なりの表現というかイメージで言うと、「大きな犠牲を伴わない愛」かなと思うんですね。大きな犠牲を伴うと、これはもう愛そのものという感じがします。

 で、私が考えるには、親切には3種類あると思うんです。一つ目の親切は、「してもらいたい親切」と言う言葉で私は言いますけれども、相手がこういう事をしてもらいたいなと思うときに、それをしてあげる親切。(中略)

 二つ目に、「してあげたい親切」というのがあると思うんですね。…そして、してあげたい親切をやったときは、結果は二つに分かれると思うんですね。ちょうど相手がしてもらいたいと思うことにぶつかったときは、「ありがとう、あなたは親切な方ですね」と喜ばれますし、また、そんな親切してもらいたくないと思っている人に、「やってあげましょうか。」と言うと、「何、このおせっかいな人。」というふうになる可能性もあると思うんですね。おせっかいというのは、本当に相手の願いや必要がつかめなかった場合に起こると思います。

 で、三つ目の親切というのは、「本人でさえ気が付かない必要を満たそうとする」親切というか愛があると思うんですね。(中略)多くの場合、一つには、親の愛というのがこの中に入ると思うんですね。子供はその必要に気づいていない、将来どういう事が必要なのか、あるいはどういう危険性があるのか、しかし、本人は必要を感じていないんだけれども、親の方で先取りして必要を感じて、それは危ないよとか、こうしちゃいけない、ああしなさいとか、こういうのがその部類に入ると思うんですね。

 そして、もう一つは、神様の愛もこの部類に入ると思うんですけど、ただ、親の愛の場合は人間ですから、不完全ですからね、それがおせっかいとか、子供からいやがられたりとか、コミュニケーションがうまく行かない場合にそういう事が起こりますけれども、この神様の場合は、私たちが気づかなかったその本当の必要を満たそうとされた、それが神様の愛ではないかと思うんですね。

 で、私たちにとって、どんな必要を神は満たそうとして下さったんでしょうか。聖書のヨハネの福音書を開いてみたいと思うんですが、今日はその3章16節から、考えてみたいと思うんです。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」私たちが知らなかった、この人間にとって本当に必要なもの、それは何だったんでしょうか。人間にとって本当に必要なものを、愛なる神様は与えようとして下さったんですね。人間にとって最も必要なもの、それは、ひとり子、ということなんですね。(中略)人間を父なる神は救うために、子なる神であるイエスキリストをこの地上に人間として誕生させて下さったんですね。そして、この地上を人間として歩まれた子なる神であられる方がイエスキリストである。これが、聖書の主張であるんです。(中略)

 どうして、私たち人間にとって、イエスキリストが必要なのでしょうか。(後略)

 

 

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