群馬を去って、早三年半。ようやく、長野の生活にも慣れてきたと言いましょうか、逆に以前の友とも離ればなれの生活で、寂しい思いもしております。せめて、こちらの様子を知らせることが出きればと思い、この便りを出すことに致しました。
{ }内は寿子のコメント、【 】内は私(量昭)のコメントです。
ここに初めて来たときは、日本にこんな所があったのだと驚いたものです。群馬でも結構山の中に住んでいたので、妻が実家に初めて来たとき、私の父は、「こんな山の中で驚いたでしょう。」と聞くと、妻は「いえ、私の家の方がもっと山ですから。」と答えた。私は、謙遜で言っているのだと思っていたが、こちらに来たとき、あれは謙遜ではなかったと知った。
群馬の記憶では、いくら山の中と言っても結局は、山の谷間か高原や台地に住んでいる。しかし、こちらではまさに山の中、7合目や峰にさえも住んでいる。一体、信州人はどうしてこんなところに住んでいるんだ、と不思議な思いにとらわれたものだ。第一、山の上で水はどうしていたんだ(今は、ポンプで水を汲み上げて配水しているが、昔は?)、交通は不便ではないのか、田畑は作りにくくないのか、なぜ学校が山の上にあるのか等々。
しかし、住んでみるとだんだんとなるほどと思えてくる。人はなぜそこに住むのか。第一は、職場がそばにあるということだと思います(→町政への提言、参照)。こちらの地形は、ちょうどお椀を伏せたような形で、谷の方が険しく、山の上の方がなだらかで、畑が作りやすいし、災害が少ない。交通路も、昔は峰道の方が、安全で崩落も少なく、発達していた。
水については、湧き水があるところか、ない場合は屋根に降った雨水をとよで集め、地下の貯水池にためる仕組みが作ってある。さすがに、水田は作れないところが多く、畑作物が中心になっている。それゆえに、米の文化ではなく、小麦粉の文化が土台にあり、それが西山地方(長野市の西の方向の山間地の意味か?)のおやきとおぶっこ(私の家では、ぶっこみと言って、うどんを幅広くした麺を煮込み、それに色々な野菜をぶっこむ?)文化となっている。その2つのどちらかが、夕食のメニューなのです。
妻の出た学校も本当に山の上であった(今は閉校となって代わりに地区の公民館となっている)が、しかし、そこに上ってみて初めて納得できたのです。一体、それぞれの集落が、山の7合目や峰にあったとしたら、どこに学校を作った方が、通いやすいか。
国道沿いには、里穂刈という地名の地区があるのですが、里で稲の穂を刈る場所に対してまさに、山で麦の穂を刈る場所、ということなのでしょう。
この言葉は、私が考えついた言葉で、誰にも言ってはいなかったが、ぴったりだと思っていました。ところが、最近、この言葉を使っているホームページがあって、びっくりしました。私と同じようなことを考えていた人がいたのだと。
信州の景色、信州人の気質、これは、もっとも日本らしい景色というイメージで、長所も欠点も含めて日本人らしい日本人であり、日本人を感じさせる童謡の多くが信州で作られていることもそう思わせるのです。