社団法人長野県缶詰協会のあゆみ
 〔社団法人長野県缶詰協会誌より抜粋〕
  


 長野県の農産加工の歴史は大変古く、明治23年頃アンズジャム製造が開始されたのが業界の始まりであると言われています。
その後、果実缶詰、トマト加工品、りんご加工品、えのき茸加工品と地元長野県農産物の加工を通じて、企業の規模拡大を図り、更には飲料生産(缶、ビン、ペット等)などの最終製に近いものまでを手掛けるまでに成長した業界の姿は、戦後時に急速に変貌を続けた日本の食生活を捉え、果敢に挑戦を続けた業界各社の苦難に満ちた歴史であり、輝かしい歴史でもあると言えます。
 戦争に因る
企業合同、更には戦後の混乱期を経て、業界の中に組織化の気運が生まれ、今日の協会設立に至っています。



企業合同

 昭和12年の支那事変以降、わが国はにわかに戦時色を強め、14年からは非常体制も敷かれ、全国の加工工場は軍需品製造に大きく係ってきました。長野県も製糸工場の一部が転換され、缶詰・味噌・醤油及びその他の加工品製造工場になりました。
 戦争の激化に伴い、農業団体等各種の合同が政府指導で強制的に進められましたが、缶詰業界も農林省からの勧告により「産業組合系統」と「産業組合以外の系統(民間系)の2系統に合同されていきました。
 この間の事情については、社団法人日本缶詰協会の記録によりますと、戦局が進む中で「国家要請にこたえ国策に即応」ということで缶詰業界も15年7月から企業合同に向かい、農林省水産局がまず所管の輸出水産缶詰工場について合同の方針を打ち出しついで同省農務局が農畜産缶詰についても同じ動きを起こしていったと記載されており、1府県1社の戦時企業合同が開始されました。



 
長野県も合同会社の発足はかなり難航したようで、いろいろな対立や論議が繰り返されましたが、17年7月産業組合系統以外の大方の業者は、長野県缶詰興業株式会社に統合されました。
 同社は長野市に本社を置き、資本金19万円、12社が合同(取締役社長 内山与四郎)しました。操業は合同後も、9工場はそれぞれの形で行われましたが、戦後分裂して消滅となりました。
 次に産業組合系統の工場については、当初は丸子・森・村井・三岡の4工場が代表的な存在で操業しておりましたが、18年の戦時統合により合同、いずれも長野県農業会の工場となって生産活動を続けました。
 また、この年は15年から割当制となっていた砂糖が配給停止となった年であり、業界にとっては暗く苦しい時代でありました。


戦後の混乱期

 長かった戦争も敗戦という結果に終わり、日本は占領時代が続くわけですが、戦時統制から自治統制へと世の中が変化する中で、缶詰業界に関する機構もこの時期に激しく移り動いています。
 主なものは、20年12月18日に日本缶詰製造業組合発足、21年3月31日に社団法人日本缶詰研究所設立、21年10月統制会社令により日本缶詰統制鰍ェ商事会社の日本缶詰鰍ノ改組、22年1月2日に缶・瓶詰検査業務が日本缶詰研究所に委嘱、23年2月20日に食料品配給公団発足、23年5月1日に輸出缶詰検査業務が日本缶詰研究所から食料貿易公団査収部へ移行等があり、更に各府県にあった缶詰合同会社も21年から23年にかけて相次いで解体され、多くの会社は企業形態に戻っていきました。


 
 このような中央の動きと同じように、長野県の合同会社も21年頃にそれぞれ独立していきました。
農業会系統の4工場についても同様で、森工場は22年に森農協加工場となり39年には農産加工部門を分離して森農産加工農協を設立、40年の更埴市の農協合併により
森食品工業株式会社と組織変更しました。
 丸子工場は山印みそ工場となり、村井工場は長野トマト株式会社としてトマトを中心とした加工を開始しました。
三岡工場は現在の
株式会社アーデンの前身であります。この他に農協系には長水農工連を母体としたものが設立されており、現在は改組して長野興農株式会社となっています。


 
 更に、この戦後の混乱期に各地に新興の会社が誕生、戦前からの会社に加えて業界規模も拡大、アンズとリンゴのジャムの生産や、それらの原料であるボイルの生産が時代の要請もあって急速に拡大し、その後もも缶詰・りんご果汁・トマト加工品・えのき茸製品等の戦前には無かった新しい食品群も加え、その生産量は農産缶詰では全国第2位の地位を得るまでになりました。


組織化の気運

 戦後の生産が次第に拡大していく中で、原料調達、販路拡大等の面で自由主義経済競争の中で当然のこととは言え会社間の競争も次第に拡大していきました。
 このような中で、「共存共栄(強調)」の考え方も芽生え始めると共に、県内各種の業界団体の窓口的存在として、昭和24年4月に長野県缶詰協会設立(会長 雨宮傳吉<2代目>)、26年5月30日に長野県ジャム協会設立、27年7月19日にトマトピューレ協議会発足、29年3月15日にトマト加工協議会発足、29年11月22日に長野県ジャム工業協同組合発足など幾つかの組織化が試みられました。
 後者を除いては残念ながら詳細な記録を発見することが出来ませんでしたが、いずれにしても組織化の気運がこの時期にかなり高まっていったことがうかがえ、いろいろな意味でこの時期は長野県缶詰業界の戦後発展の黎明期であったといえるでしょう。


社団法人長野缶詰協会の創立

 長野県は戦後、りんごを中心とした果樹類と加工用トマトの増植が進み、加工原料が豊富に生産されるようになり、加工事業の展開が比較的容易に出来ることもあって、工場数でみると昭和29年時点で38工場存在していたものが、33年には47工場と4年間で9工場も増えました。
 これらの工場は前段でも触れたとおり、大きく分類して農村工業協会所属工場(農協系工場)、業者系工場となるわけですが、行政指導の面でも、農協系は経済部特産課管轄で、業者系は商工部工業課が担当するという極めて不円滑な状態にありました。
 そこで、両団体を合わせて一本化し新しい協会を設立、県の所管も原料から製品まで一貫させるとの考え方から経済部特産課の所管にするということで、31年7月27日前長野県缶詰協会と長野県農村工業会が拡大統合、長野県缶詰協会が発足しました。



 
 初代会長には、西村勝太郎(農村工業協会長<元経済連副会長>)が就任、協会設立当時は系統の異なった企業の集合のため、連絡強調に意が注がれたようです。
 事務所は県特産課内に置きましたが、事業が次第に拡張するに伴い手狭となったため、県経済連内に移り経済連から専任職員が事務局長として出向し業務を担当していました。
 業種別の特長を発揮できる活動をするために、総務部会、トマト部会、果汁部会、ジャム部会、缶詰部会、えのき部会、ボイル部会、輸出部会、技術部会を設け、いずれも原料の確保、受入れ、生産販売計画等に関連した活動が中心でありました。



 その後、業務の拡大発展がなされ、39年2月社団法人長野県缶詰協会に改組して今日に至ったわけですが、長野県の缶詰業界を取り巻く環境は、一連の果汁自由化に代表される「国際的物流時代」の到来等新しい時代に入っており、今後の協会活動はますます重要な意義を帯びてくると言えると思います。