1.雨中の正受庵坐禅会
これまで正受庵坐禅会を11月初旬に開催してきましたが、行楽時期と重なる新幹線の混雑を避けるために、10月下旬に前倒しをして行いました。
朝から雨でしたが、この坐禅会の開催日に雨が降ったのは初めてのことでした。このため墓参・記念写真の撮影も、初めて室内の庫裏で行いました。
参加者にはご不便をお掛けした面もありましたが、一方で風情のあるしっとりとした雰囲気の中での坐禅会となりました。
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2.ご提唱1:飯島老師【洞山三斤】
飯島老師のご提唱は、「無門関第18則 洞山三斤」でした。折からの雨天でしたので、これを引き合いにして「碧巌録第46則 鏡清雨滴」のお話から始まりました。その場の状況を即座に活用をする好例でしたが、以下に概要を記します。
鏡清が「門の外に聞こえる音は何かな?」と問う。僧が「雨滴の声です」と答えた。これで問答は終わりである。続けて道元の「聞くままに また心なき 身にしあれば 己なりけり 軒の玉水」の道歌を示され、これは「鏡清雨滴」と同じことを言っている。どういう己なのか? 己とは何か? という禅の根本の問いである。
心がないということは、無心であり無我である。無心で聞くと、実は無心以外では聞きようがないのだが、軒の玉水・ポッチャンがそのまま己となるのである。己のことを「仏」と言う。「祖師西来意」とも言う。
これと同様のことは、無門関第21則「雲門屎橛(しけつ)」でも見られる。雲門和尚にある僧が「如何なるか是れ仏?」と問うと、雲門は「乾屎橛(かんしけつ)」と答える。ここで雲門は「仏イコール乾屎橛」という理屈を言っているのではない。理屈抜きで「乾屎橛」と丸出しにして見せているのである。
「如何なるか是れ仏?」という問いに、馬祖は「即心即仏」と言い、後には「非心非仏」とも言っている。
「即心」と「非心」は論理では矛盾しているが、いずれも丸出しのそのもの自身であり、私たちの本質を言っている。仏そのものを出して見せているのである。「私たちの本当に生きている中身(これを仏と言う)は何ですか?」というそれぞれの僧の切実な問いに対し、三者(鏡清・洞山・雲門)が三様に答えているのである。
無門関第37則では、ある僧が趙州に「如何なるか是れ祖師西来意?」と問うと、趙州が「庭前の柏樹子(はくじゅし)」と答えている。祖師とは達磨のことだが、「祖師西来意」とは「達磨は何を伝えたのか?」という問いであり、「禅のギリギリのところを示してください」という問いでもある。趙州は「庭の柏の木」と答えている。
趙州録では、同じ庭の柏の木を用いて次のような問答となっている。ある僧が「如何なるか是れ祖師西来意?」と問う。趙州は「庭前の柏樹子」と答える。僧は「趙州和尚、境(心の外にあるもの)をもって人に示さないで下さい」と食い下がる。
趙州は「われは、境で人に示してはいない」と答える。そこで、僧は再び「如何なるか是れ祖師西来意?」と問う。
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趙州は再度「庭前の柏樹子」と答える。趙州は「庭前の柏樹子」は客観的な物ではないと言っている。それでは「庭前の柏樹子」とは何なのか?
見性体験がある人ならば容易に答えられるはずである。
ところで、皆さんは「仏とは何ですか?」と聞かれたら、何と答えますか?・・・私だったら「あーおいしい」と答える。「仏とは何ですか?」と聞かれたら「仏!」と言う。「パチン!」と手を打つ音で答える。仏とは何か?と聞かれても、実は答えようがないから(乾屎橛とか庭の柏の木とか)と禅者はいろいろに言う。
ここで再び本則に戻って語られる。無門は、「洞山は、ハマグリ貝の二枚のふたを開いて、内臓まで丸出しにしている。さすがは洞山である。よく心得ている」とほめている。しかし、そうではあるが、無門禅師は「洞山和尚の本質をおまえたちはどこに見るか?」と弟子たちにぶっつけて、おのおの室内で答えてみよと迫っている、と結ばれた。
頌では、「麻三斤!」という言葉で親しく言っているが、思いもぴったりだ。「是非」つまり良いとか悪いとかと言っている間は、「是非」の人つまり分別の人になってしまう。「麻三斤」とは何を言っているのか? あれこれと頭を使って考えてもそれらすべては事実ではなく、妄想そのものでしかない。是非を超えたところに禅の本質があるのである。無門は、「洞山の麻三斤は素晴らしい、この素晴らしさが分かるかな」と言っている、と結ばれた。
続いて、碧巌録第7則に移りました。慧超が法眼和尚に「仏とは何か?」と質問した。法眼は「お前は慧超に他ならない」と答えた。問答の場面においては、慧超は仏を自分の外に求めて質問していることが法眼には見て取れたので、法眼は「自分と自分以外のもの」と二つに分かれる以前の在り様「汝は是れ慧超」と示したのである。
「仏とは何か?」に対して、道元は「聞くままに また心なき身にしあれば 己なりけり 軒の玉水」と仏とは無我という自分のことであると詠っている。このように受け取ることを「正受」と言う。ここはまさに「正受庵」なのである、と語られました。
飯島老師のご提唱は、「自分以外に仏はいない」(衆生本来仏なり=白隠)という内容で、終始一貫しており、分かり易い素晴らしいお話でした。
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3.昼食
正受庵での昼食は、コロナ禍での各自持参を除き、一緒に笹寿司を食べることが定番になって来ました。いつも同じメニューでは事務局として申し訳ないという気持ちもありますが、参加者は「ここ飯山でしか食べられない」という意見が多いので、いつものおばちゃんのお店で購入します。おばちゃんも慣れたもので、「器を開けるとき、バリバリと音がしないように輪ゴムでとめておくからね」と気遣いをしてくれます。年に2回だけのお付き合いなのですが、物価が値上がりして値段が上がっている時でも、「毎回購入してくれるから」と料金据え置きでのサービスもしてくれます。こういう関係を有難く思っています。
笹寿司のついでに、信州の地域食を紹介しました。北信では笹寿司の他におやき、南信では五平餅・ほうば巻きなどで、いずれも各地の保存食として重宝されてきました。冷蔵庫などがない時代に、できるだけ長い時間安全安心して食べられるように、殺菌効果のある植物の葉を用いるなど、先人の智慧や工夫にも感心します。
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4.墓参・写真撮影

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いつもは外での墓参ですが、雨天でしたので庫裏のご本尊様の前で行いました。
ちょっと感じや雰囲気が違っていましたが、正受老人も苦笑いしながら読経をお聞きになっていたことでしょう。
続いての写真撮影も同じく庫裏で行いました。
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5.ご提唱2:桐山老師【無我ということ】
桐山老師のご提唱は、午前の飯島老師のご提唱及び「悟り」を受けた形で始まりました。雨だれの音で悟りを開く人(鏡清雨滴)もいる。竹に石が当たった「カチッ」で悟った人(香厳撃竹)もいる。満開になった桃の花をみて悟った人(霊雲桃花)もいる。ここで「当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり」(白隠)を取り上げ、自分が見聞するそれぞれの対象物が、この身にピターッと一致したときに悟りに至ると話され、具体例を挙げた。お経を読む声の力で悟りが開けることもある。自分がお経を読むことと一つになるからである。法然上人は、「心の底からうらうらと一念の疑念もなく」読経して、念仏一つになることが大事だと言っている。大リーガーの大谷選手は、試合中にものすごい大声を出しているが、スポーツで力を発揮するには大事なことである。私たちも読経などをするときに、本気で本当に自分の声でやっているかどうか。「自分の声が嫌だ」の著者である山崎順子という人は、アルコール中毒で心が萎えていたときには「自分の声が嫌い」だったが、ある時この自分の声に光が差して、アルコール中毒から解放されたという。この事例からも分かるように、「その人自身の本当の声」が出せることが大事である。場合によっては、声で悟りが開けると思う、と老師は語られた。
ご提唱の本題は「無我ということ」で、資料のプリントに沿って進められました。無我と空の関係から論じ、無我は働きを表し空は状態を表していると両者の違いを端的に示された。二元論は自己を立てることで対象的に物事が現れ相対となるが、科学や知性はこの二元論が元になるので、二元相対的・分析的となる。デンマークの物理学者・哲学者のニールスボーアは科学者・研究者だが、東洋思想にも精通していて最先端の科学である量子論の矛盾を相補性の原理(互いに他を補う)で克服した。善悪・凡聖・明暗・男女・色空・意識無意識・・・等は互いに相反するものだが、一方が他方を凌駕すると両方とも成立しなくなるので、両者は対立や凌駕ではなく相補の関係にあるとした。ニールスボーアのこの考えは、東洋の文化・哲学から学んでいて、悟りや見性にも繋がっている。科学は物事を対立的に捉えるが、禅は関係として捉えるのである。
ここから禅に深く関係する話に入りましたので順に記します。先ず道元の現成公案「仏道をならふというは、自己をならふ也 自己をならふというは、自己をわするる也 自己をわするるといふは、万法に証せらるる也 万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる也」を取り上げた。脱落とはあらゆるものを手放すことで放下着であり、自己をわするるとは無我になることである。
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続けて「すべては自己である」(道元)の原文「是時十方法界の土地牆壁瓦礫皆仏事・・・中略・・・是れ發菩提心なり」を日常の分かり易い言葉に置き換え、我々が脱落した時には、この世界のすべてがことごとく自分である。天地自然つまり大地や空気がなくなったら我々は生きられない。取るに足らないような石ころが光に満ちている。石ころやゴミまでもが悟りを開いている。道元の言う脱落にはこのような力があることや、すべては自己であるということはこのような意味である、と説かれた。 この脱落の瞬間を、無門慧海禅師は「晴天白日一声の雷 大地の群生眼豁開 万象森羅斉しく稽首す 須弥脖跳して三台に舞う」と偈で示したが、分かり易く言えば「無に成り切りカラーッと何も無くなったところに雷声がとどろき、世界のあらゆるものも同時に悟りを開いた。万物は皆一斉に敬礼をした。宇宙は爆発し神仙が世界で飛び跳ねるように踊った」となる。また他の先師たちの言葉を引用し、苧坂光龍老師は「死んで生きるが禅の道じゃ」と言われ、室内では「死んで来い」と激励もされた。正受老人は「坐死 死急にして言い難し 言無言言 道わじ道わじ」と遺偈に書き、無難禅師は「生きながら死人となりてなり果てて 思いのままにする技ぞよき」と示された。桐山老師ご自身の体験(光龍老師への参禅入室や禅問答)とも重ねて、悟りの瞬間が如何なるものかを補強的に敷衍して語られたのである。
また、無心(無意識)では、岡田利次郎先生の「見ようとしないでも見てしまっている、聞こうと思わなくても聞いてしまっている、考えようと思わないでも考えてしまっている、分かろうと思わないでも分かってしまっている」と、私たちの現状に即して頭の知的理解を通さない仕方で、無心ということを体感・納得できるように話された。
更に、「禅は人々を不可得という仕方で自証する自己に目覚めさせる」における不可得について「禅八講(鈴木大拙著)の慧可と達磨との問答で示された。慧可が心の不安を達磨に訴えたが、達磨はその心をもってくれば安心させてやろうと答えた。慧可は心を長年探究したが掴めないと言った。達磨は間髪を入れず「そこだ、汝の心を安心させた」と言い了えた。不可得ということの真意は、心が無心(無我・空)であり、物体とか生命体とか実存物などの実体はないことを、問答を通して端的に示したのである。つまり不可得とは何も得られないことではなく、無心・無我・空という禅での大核心を会得させることだったのである。しかし、長年の探求・工夫の末の会得であることを見逃してはならない。
ご提唱は、無我あるいは無我のはたらきとはどのようなものであるのかについて、他面的にかつ丁寧に語って頂きました。従って、私たちの修行実践上での困難さもありますが、希望が見えたり納得できたりすることも多々ありました。
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6.放散茶礼
桐山老師の司会進行で、庫裏で車座に坐って行いました。場の雰囲気を読み取り、ざっくばらんに進めようと、本日のご提唱についての感想や質問から始まりました。松本さんから「ニールスボーアの相補性の原理に関連して、二項対立について詳しく説明して欲しい。バランスが崩れるということか?」という質問が出されました。これに対して桐山老師は「AとB、明と暗、男と女は互いに違うが、一方を否定すると他方も成立しない」と回答されました。会員からは、「これは関係性のことですね」とか「善だけだと善も成立しないことになる」と、自らの気持ちを納得させ確認するような意見も出されました。また、別の話題としては、桐山老師の出版予定の本のこと、AIに関係したこと(AIは悟れるのか)、オランダの禅リバーのこと(欧米の人は声がいい)、ありがとう禅のこと(初参加者は、初めは意味不明だったが次第に分かってきたこと)などが和やかに出されました。
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7.慰労懇親会
ホテル信濃路で、有志で飯島老師を囲みながら有意義なひと時を過ごしました。酒宴らしい様々な話題の中で、釈迦牟尼会の現状や将来についても厳しい指摘も含め、様々な意見が飛び交い互いに身や気を引き締めたりしましたが、いずれの困難に対しても前向きに進めようとの心意気がこもったもので、明日への活力源となりました。正受庵での坐禅会および酒宴の場の力と良さとが再確認できた時空でした。
(文責:峰村) |