峰 村 鉄 男              .

はじめに

 釈迦牟尼会主催の正受庵での坐禅会が、昨年(令和4年11月3日)3年振りに再開されましたが、今年も11月3日に予定通りに開催されました。

 当日は、名誉会長山本老師・会長飯島老師・代表理事土居さんをはじめ、多数の皆様の参加(総数16名)を頂きました。昨年と変わった点は、正受庵本堂の屋根葺き替え工事延長の関係で坐禅堂が使えなかったこと、イギリス人のマイアナ・レノンさんが初めて参加されことなどです。
 レノンさんは、長野禅会ホームページ募集案内を見て参加されましたが、これは本坐禅会が広く世界に向けて発信されていることを示すものであり、これからの坐禅会にも期待をもたせるものとなりました。

 日程および内容は、昨年とほぼ同じでしたが、順を追いながら報告致します。

1.坐禅・独参

 坐禅堂が使えないため、坐禅を含む全ての差定を庫裏で行いましたが、日頃行っている畳の坐禅堂と同じでかえって落ち着いてできたように思いました。独参は昨年と同様に、山本老師と桐山老師とが二か所で同時に行い、老師方のご配慮で内参も認めて頂きました。坐禅と独参の会場が、同じ棟内の庫裏となり若干の窮屈さを心配しましたが、皆さん手慣れた様子で進めて頂き、滞りなく実施できました。

2.提唱1:【二僧巻簾】

 午前のご提唱では、飯島老師が「無門関第26則 二僧巻簾」をテキストとしてお話しをされましたので、概略を記します。
 本則から入ります。法眼禅師のところに二人の僧が参禅します。法眼は二僧に対し、簾を巻き上げるように言います。二人は簾を巻き上げますが、これを見た法眼は一人の僧には「OK(よし=得)」、もう一人の僧には「だめ(=失)」、と言います。
 この師弟のやり取りに、無門が、さぁ言ってみよ、誰がOKで誰がだめなのか、ここをきちんと見る(一隻眼を著得する)ことが出来れば、法眼が大しくじり敗闕はいけつをしたことが分かるであろう。しかし、ああだ・こうだ(得・失)と言ってはいけない、と評唱します。

 ここまでの本則・評唱を、飯島老師は分かり易く説きます。この二僧が簾を巻き上げたことは、マインドフルネス(全身全霊の全行為)で手の着けようがないところです。手の着けようがないところに、法眼は敢えて一人はOKでもう一人はだめ、と言って波風を起こしています。何を見てOK、何を見てだめと言うのか、このように言うこと自体もマインドフルネスです。
 禅は今・ここで生きていることそのもので、それしかありません。


 今ここで生命が燃焼しています。OK(得)の時は、畳もOK・柱もOK・塵ひとつもOK・・・で、一つ一つ全てがOK(得=全機現)でだめなところは何もありません。
 逆にだめ(失)な時は、畳もだめ・柱もだめ・塵ひとつもだめ・・・で、一切全てがだめ(失=全機現)ということになります。このようにみると、法眼の「一得一失」は良し悪しの評価のようにみえますが、評価を超えたものの在り様を示す言葉です。一得!と言いつつパチン!と両手で音(宇宙全体がパチン!の一音)を出され、同様に一失!もパチン!と両手で音をだされ、両者が全く同じであることを示されました。
 真に今を生きていると、見たままに働き聞いたままに働きます。つまり生き通しに生きていることを、一僧にはOKでもう一僧にはだめと示しています。どちらも全機現で全く同じです。
 人は生まれたときは全て平等で差別・区別など何もないのに、しばらく経つと男・女・飯島・・・とラベルが貼られ、このラベルに縛られ自縄自縛になって自由を失ってしまいます。法眼は、得失というラベルを貼る(評価する)ように言いつつ、ぴちぴちと働いている大元のところを示しているのです。
 頌に入ります。簾を巻き上げれば、青空がどこまでも広がっています。自分が青空になっています。見たままに働きます。しかし、この青い虚空でも、虚空さえ打ち払った真空の境地・真空無相に比べたら、まだまだ不十分です。綿綿密密以下は、諸法実相に戻ってきたところです。簾を元に戻した現実の私たちの世界が、そのままピターッと生き生きと働いているところです。
 達磨も指一本触れられないアンタッチャブルなところです。二人の僧は気付けなかったかも知れません。自分たちがアンタッチャブルな存在であることを。二人の僧は、実は私たち自身のことです。
 更に、飯島老師は、私たちがとかく陥りやすい禅の捉え・考え方にも、鈴木大拙や横田南嶺の著書等を引用されつつ、言及されました。桂琛けいちんから「山河大地と自己は同じか別か」の公案を頂いた、まだ修行中の若き法眼が、何度見解けんげを示しても否定され続け、窮地に陥って「もう何も言うべき言葉がない」と吐露したときに、はじめて桂琛に「そのままでよい」と認められました。「そのままでよい」というのは、「詞窮まり理絶して進むことも退くこともできない窮地」(大拙)の体験を経て、つまり、分別知を絶したときに得られる境地・自覚のところです。
 初めから何もしないでいて、「ありのままでよい」とするのは禅ではない、禅の修行とは、何かを知的・分別的に分かることではなく、分別知の否定にこそあるのだということを、懇切・丁寧に語って頂きました。

3.斎座

  昼食は、庫裏で机を横二列に並べて頂きました。昨年はコロナ禍ということで、全員が前庭を見る形で座りましたが、今年は互いの顔が見える形で座りました。この坐禅会で定番となっている笹寿司(北信越特産の別名謙信寿司)を、喜捨のりんごや梨などとともに頂きました。まだ、コロナ禍が頭の片隅にあったため、食事前後の読経を除いては作法通りにはできませんでしたが、紅葉の小春日和を満喫しつつ心静かに頂きました。

4.提唱2:【量子論と禅」】

 午後のご提唱は、「量子論と禅」と題して桐山老師に行って頂きました。禅の視点から量子論を捉えるということは、苧坂光龍老師の「欧米の科学文明を本物にする禅の力」という大きなテーマに迫るものであり、ここに禅の使命があるとする桐山老師の確信からです。
 西洋科学文明の根底にはデカルトの「我思う故に我あり」に象徴される近代合理主義的な考え方があり、これを採り入れた日本は、より速く・より多く・より効率的に物を生産し発展し続けてきました。しかし、この繁栄と引き換えるように過当競争に翻弄され、仮想現実に埋没して身心を病んで引きこもりになってしまっている人が現在70万人と言われ、また感じやすい子供たちが、いじめで不登校などになってしまうという憂慮すべき現実があります。さらに核兵器などのおぞましい殺戮兵器が人類の生存を脅かすという危機的状況もあります。いずれも欧米の科学文明に関連して起こってきていると思われますが、これらの問題点を明らかにし、欧米の科学文明を本物にすることが私共の使命ではないか、と冒頭での確信を世界の現状に即して明示されます。
 この確信が更に補強・敷衍ふえんされていきます。一つ目は、土居さんとともに山本老師のヨーロッパの布教活動に随行・同伴した桐山老師ご自身の体験に即して、世界に広がっている禅についての紹介を通してです。二つ目は、さらに午前中の飯島老師の二僧巻簾の提唱に関連して、一人は「得」他方は「失」、西欧の科学文明が「得」ならば、禅は「失」なのか、その逆はどうかと問題提起され、禅の真髄である「得失昰非一時に放却せよ」という「信心銘」の言葉の引用を通してです。

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 これらの確信が、これまでに実証されてきた事実や今後の展望に繋がっていることも、次の様に語ります。
 苧坂光龍老師のアメリカでの英語による公案指導を含めた布教活動の伝統を引き継ぐ形で、山本老師がポーランドやオランダなどのヨーロッパ各地で布教活動を行った事実を語り、この事から英語でも公案指導ができることや、オンラインでも提唱や交流ができることは、欧米をはじめ世界への禅の一層の流布拡大の可能性を知ることができると、釈迦牟尼会の現状や実績に対する肯定的な思い・高評価を示されました。

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 続けて、欧米の科学文明を本物にするキーワードは禅ですが、これを支えているのは唯識思想であるとして、この思想を概説されました。禅では、三界唯心・無心などと「心」を多用しますが、心の説明ではなく心のはたらきを提示します。しかし唯識思想では、心を「識」として緻密に分析して説明していますので、唯識を通して科学文明の明暗を明らかにする、ということができます。
 また坐禅で深層心を見つめていくと、マナ識による自我意識の様相がはっきりと捉えられ、苦しみの原因である自我への囚われや煩悩を克服する手立てが明らかになり、迷いや執着を離れることができるということを、自らの経験に即して語られました。 
 さらに、「現象そのものが心であり、心があって現象は向こうに在ると思っているがそうではない」という山本老師のご提唱を引用されながら、唯識思想の核心部分に迫ります。

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 向こうに山があるのではなく、私の心が山である、つまり、山に対する自分の経験・知識を総動員して山を向こうへ映し出して、自分の心を見ていると言うわけです。
 向こうに何も無いわけではないが、自分が見ている形ではない、Aさんが見る山とBさんが見る山はそれぞれ違う山である、向こうに山があると思っているが、あるのは自分の心で、自分の心を見ていることになる、と。
 子どもは子どもなりに、大人は大人なりに、ヨーロッパ人はヨーロッパ人なりの山を見ている、その土地・文化を背負って映し出した心の映像を見ているのであり、これを唯識では虚妄なるもの、または表象である、などと説いています。


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 この表象という仕組みや捉え方を、「唯識二十論」等を手掛かりに、我々の日常感覚と結びつけて説明を続けられました。我々が目にする現象(山など)は、表象や映像として生じる虚妄なるもので蜃気楼みたいなものだということです。
 蜃気楼としての山は実体ではないことは経験的に理解できます。蜃気楼は何もないところから生じるのではなく、これを生じさせる本体(目には見えない)と関連していることも理解できます。表象が何故に生じるのかは、我々の主観と対象化された客観とのはたらきということになりますが、主観・客観という枠組み自体が、本来的には、少なくとも禅の世界では存在するものではないので、構想され仮構されたものだと言われます。
 現象(山など)は、ものの本体(自性)の仮構であると言われる所以であり、つづめると現実の世界は心の誤った表象であり、最高の真実はその虚妄なる表象を離脱したこころである、という唯識二十論の言葉に繋がっていきます。
 禅では、心は内にも外にもなく、かつ内にも外にも在ると言われたり、現象は本体と同じではないが別物でもないと言われたりしますが、この一見難しく混乱しそうな真の実在を、誰もが想像・連想しやすい蜃気楼のようなものという比喩で説明されました。

 桐山老師は最先端科学として登場してきた量子論は、古来伝承の東洋伝統の唯識思想で説明が尽くされると説きます。敢えて量子論を引き合いに出すのは、近代合理主義的な考え方(実証主義)に慣れ切ってしまった人々にも、禅の在り方や生き方を納得できるように説明するためです。
 今日の量子論では、光や電子は粒(素粒子)でもあり波動でもあるという見解に到達していますが、この見解はこれまでの古典物理学の常識・矛盾を覆す力をもっており、量子力学が真の実在の解明に近づいている証である、...と。
 時間の都合もあり量子論の全貌までは言及できませんでしたが、今回は問題提起と言う形でまとめられ、今後の課題として「皆さんはどう考えるか?」・「関心をもって頂きたい」と投げかけつつ、苧坂光龍老師から託された科学文明の将来的展望を情熱もって語って頂きました。

5.ありがとう禅と墓参

 ご提唱の後に、昨年と同様に経行を兼ねて「ありがとう禅」を行いました。桐山老師の叩く木魚のリズムに合わせ、全員で庫裏内を歩きながら「ありがとう」を唱えました。 また、恒例の墓参も飯島老師をご導師とし、般若心経・三綱領を唱え、線香を手向けました。このかたわらでは、茅葺き屋根の修復工事がほぼ終了に近づいた本堂も、墓石とともにきれいに紅葉した木々に包まれていました。

6.放散茶礼

 桐山老師の進行で行われた放散茶礼では、参加者から貴重なお考えやご意見を頂きましたので、いくつかをご紹介します。
 正受庵という場所に関しては、山の空気の濃やかさ・紅葉の美しさ・聖地及び祖師禅の深さなどを、また、時間や思いに関しては一期一会・充実した素敵さや素晴らしさ・元気をもらえた坐禅会のことなどを語って頂きました。更に、新機軸のご提唱に関しては、高度である・ゼロポイントフィールドなどに思いを馳せたことなどを、それぞれの立場から述べて頂きました。
 茶礼のまとめの山本老師のご講評では、正受老人―白隠禅師の存在がなければ釈迦牟尼会の存在はないこと、山本老師は白隠から数えて12代目であり13代目も続いていることからご縁の大切さを感じていること、公案修行では専門僧堂に負けない自負があること、もうすぐ80歳になるが心は衰えず、本当の悦びを痛感していることなどを、切々と語られました。これも会員の皆さんのおかげですが、真の仏法建立に向けてともに邁進していきましょう、とご自身を鼓舞しつつ参加者全員に対して大きな激励をして頂きました。

おわりに

 参加者及び陰で支えて下さった皆様方のお力により、今年の坐禅会も無事に終了することができ、深く感謝申し上げます。坐禅終了後の出来事を若干記します。各老師方を囲んでの慰労懇親会を、宿泊所でもある市内のホテルほていやで行いました。
 10名の有志の参加者は、近況報告・不二道場を含む社会情勢・等々に話の花を咲かせましたが、半数の方々はそれぞれのご都合で帰宅されました。遅い時間に遠方まで大変だった事と思います。
 しかしながら、正受庵での坐禅会を定例化できないかという会員の念願が、また一歩前進したように思い、有難く感じました。今後とも多くの関係者のご協力ご支援が不可欠になりますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。       

★ 付記

 正受庵坐禅会(11月3日)での提唱2「量子論と禅」は、時間の都合上この内容が途中まででしたが、後日2回分の円成寺での提唱をこの続きとすることで、「量子論と禅」の全体像が見えてきますので、ここに掲載します。

 1回分(11月19日)
 前夜の小雪が嘘のように晴れ上がった日でした。ご提唱は、正受庵での「量子論と禅」の語り尽くせなかった部分を補填する形で始まりました。
 先ずは、「これからは悟り大陸の探検が始まる」という岡田利次郎先生の指導により、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一(主客合一)」などが納得できるようになった、と見性という事の事実を示して頂きました。
 次に、齋藤さんの「畳の上にあるノート(客観)とこれを見る自分(主観)との関係」の質問に答えて、全ての物は自分の心の表われであること、自分の知識や経験を元にして見ているが、主観・客観という様な構想された形としては無存在であることを語られました。無心で観ると、ノートそのものが自分である(自他一如・物我一如)と感じられるようになる、と唯識や量子論を一層深めようとされました。
 量子論では上下・長短・明暗・男女・苦楽などの相対的縁起関係を「パラレルワールド」などと言いますが、量子力学の創始者ニールスボーアは相補性の原理と言っています。禅から観れば当たり前の事ですが、禅の側から主張する人が居ないのは残念です。光龍老師の「欧米の科学文明を本物にするのは禅の力である」という主張に呼応するように、ボーアは大阪帝国大学の講演で「西欧と東洋の全く異なった価値を結びつけようとして日本で達せられた成果に強く印象付けられた」と述べ、帰国後日本との出会いから相補性の原理の思索を一層深めたという事を紹介して頂きました。
 禅の哲学である一元論としての空観や唯識と、西欧科学文明の最先端である量子論との融合に向けた希望の言葉です。 
 最後に、「山を見ることは自分の業(心・行為)を見ること」である、と本日の内容を唯識論的にまとめられ、業に触れている「慈悲の瞑想」(スマサーラ著)を全員で読誦して閉会となりました。

 2回分(12月17日)
 前日の温かさが一転した寒い日でした。ご提唱は「相補性原理(U)」でした。私たちが真に生きる事とは、「禅を生きる」事なのですが、この内容の一つをイチロ―選手がバットやグローブを大切に扱うという実例で示して頂き、人や物を大事にし、慈しむという事の具体の姿を教えて頂きました。
 仏教や禅の言葉で言えば、自他一如・物我一如であり、縁起観や空観になります。ここを最先端科学の量子論も援用するので分かって欲しい、という桐山老師の真意・熱意が伝わってきました。
 量子力学の父と言われるニールス・ボーアの相補性原理は、仏教哲学や唯識論で説いている事柄(物事は虚妄なるもの・現象は心を映し出している表象・物は無いというわけでもない等々)を量子論の側から迫るものです。
 全ての物事は相反する二つの側面があり、互いに補い合って一つの実在として成立しているので、禅の「自他一如」と全く同じに解釈できる。因果律に相補性を加えて、現存する各要素に働く関係性を明らかにしていくと、各要素は相互依存の関係で成立していることが明らかになり、「縁起なるものは無自性・空」という仏教の中心思想と合致します。原因と結果の間にも相互依存性が見られ、因果律自体が相補性原理の一部と見做せる。
 量子論における相補性の原理は、近代科学の面から実在に迫る画期的なもので、更に禅の立場から科学文明を俯瞰すると、その虚構性が明らかになり、西欧の科学文明を本物にする禅の力が愈々発揮されることなる。とまとめられました。
 次にスマナサーラ氏の「慈悲の瞑想」を皆で読誦し、各章の文言を各自の心の在り様と重ね合わせて話し合ったり、本日の量子論と関連づけて解説をして頂いたりしたので、ご提唱の理解が一段と深まりました。



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