峰 村 鉄 男              .


はじめに

 釈迦牟尼会主催の正受庵坐禅会が、令和4年11月3日に3年振りに再開されました。コロナ禍で中止を余儀なくされていたからです。
 コロナも完全に終息したわけではありませんが、本会および関係者の多大なご努力やご配慮により、ようやく再開にこぎつけられたことに感謝しながらの開催になりました。

 今回の坐禅会は、飯島老師が釈迦牟尼会会長に就任してからの初めての開催となり、名誉会長山本老師・会長飯島老師・代表理事土居さんをはじめ、多数の会員の参加(総数19名)を頂きました。
 とりわけ、阪神禅会からも4名の会員が初めて参加されこと、会員以外の一般の参加者もあったことは、本坐禅会の一層の広がりを示すものであり、10月6日に正受庵で開催された正受老人の300年遠忌(50年ごとの開催)とも合わせ、記念の年の坐禅会となりました。
 当日の様子の概略を、差定の順を追いながら報告致します。


1.特筆すべきいくつかの事

 今回は、午前と午後にそれぞれ2回の坐禅・独参・提唱が行われましたが、特徴的な様子を記します。午前の2炷目の冒頭に、西山禾山老師の般若三昧を全員で唱えました。長野禅会では毎回実施していることですが、今回初めて唱える方のために、桐山老師からこの由来・目的と唱え方の説明がありました。その後に全員で唱えましたが、禅堂に響きわたる大勢の朗々とした唱和にはやはり迫力がありました。以下、他の特記事項を記します。

 @ 独参1

 独参は、東京道場の山本老師と長野禅会の桐山老師のお二人とが同時に行うということで、独参室と喚鐘場は2か所に設けられました。


 2か所で鳴らす振鈴と喚鐘の音とが交じり合ったり聞こえづらかったりすることがあっても支障がないように、前の入室者が退室して帰って来る姿を見たら、次の独参者が入室するという方法を採りましたので、スムーズにできたように思います。

 A 提唱1--「坐禅は何をしているのか」 飯島広美老師
 午前のご提唱では、飯島老師が「坐禅は何をしているのか」と題してお話をされましたので、概略を記します。飯島老師は、自ら師事した岡田利次郎先生の教えの核心である「生きているありのままの自分を、生きたまま掴まえること」をご提唱の導入口にして、ありのままの自分の正体とこの掴まえ方(自分に張り付く全てのラベルを剥がすことで、真の自分は実体がないことが分かる)などを、祖師禅における諸問答(景徳伝燈灯録・趙州録)などを援用しながら、飯島老師ご自身の言葉で分かり易く説かれました。

 釈尊の悟りである「自分というもの(実体)はない」や「(実体のない)自己やものを掴まえる」ということを修行者に分からせるために、祖師方は「千聖(仏)もまたらず(薬山)」・「非思量ひしりょう(道元)」・「庭前の柏樹子はくじゅし(趙州)」などと苦心の表現をしている。

 

 これを私たちの日常に即して重ねてみると、(物事・事象を)自分の目で見ていると思っているが、実は見えているのである。見えているということは目のはたらきに任せていることで、これは自分のはたらきではない。自分の目や心のはたらきではなく、いのちの根源に支えられて、見えているのである。
 これと同様に、耳で聞くことや心に感じることもそうである。従って、自分は「一切なさず」である。私たちは過去を振り返ったり未来を想ったりするが、いずれも自分の頭脳(言葉や概念)で作り上げた物語であり、事実ではない。物語は、言葉で言ったり思ったりした途端に過去や未来となり、

 今の事実(即今・ここでの生きたはたらき)ではなくなる。私たちは今を生きているのに、すぐ心がはたらき出して言葉で物語を作ってしまうために、今を掴まえられない。今の事実をつかまえるためには、心意識の運転(言葉や概念での物語)を止めなければならない。

 「非思量」である。坐禅により自分の目や心のはたらきを止めていくと、縁に依って生成変化している万物が、目として見え、耳として聞こえてくる。
 「縁起」である。私(飯島老師)が(単独で)いるのではなく、正受庵とともに私がいる。私は正受庵を離れることはできない。このように話す私(飯島老師)の提唱も(言葉で紡ぎ出された)物語であり、事実(生きたはたらき)ではない。事実(生きているありのままの自分)を掴むためには、皆さんが自分で坐禅にぶつかって感じ体得して頂きたい、と結ばれた。

 「坐禅は何をしているのか」というテーマは、大抵の参禅者が懐く疑義であり課題でもあります。釈尊の悟りと私たちの坐禅修行との実践的繋がりを、穏やかな口調で丁寧に語って頂きました。坐禅に取り組む私たちに、改めて確たる方向性(自分に付いたラベルを徹底的に引きがすこと)と励ましとを与えて頂きました。

 B 斎座

 昼食は、募集案内で示した各自弁当持参(コロナ禍対応)の方針を貫きました。庫裏で机を横一列に並べ、前庭の素晴らしい見ごろの紅葉を鑑賞しつつ頂きました。実際は持参の弁当ではなく、全員が笹寿司(北信越特産の別名謙信寿司)を喜捨のりんごなどとともに食べました。


 しかし、食事も修行の一環であるということで、不二道場の作法通りにはできませんでしたが、正受老人などに思いを寄せつつ心静かに黙食で頂きました。

 C 独参2

 午後の独参も午前と同様に行いましたが、山本老師の温かなご配慮により、相見の礼をとってない方も内参という形での入室を推奨して頂きました。
 内参ではあっても、師家と直接の問答ができたり、人(にん)と人との直接の対面ができたりするので、坐の深まりが実感できたと思います。大変に有難いことでした。

 D 提唱2 --「正受老人の哀しみ」 桐山紘龍老師

 午後のご提唱に先立ち、桐山老師は地元代表として飯山に参集された方々に対する御礼とともに、人格主義教育を掲げる信州教育の教師の修養の一つとしての坐禅(藤森省吾の坐禅を含む三種の勉強の実践)や、小池與一が立ち上げた正受庵での坐禅会への参加など、ご自身の正受庵や坐禅との縁を語りました。更に、愚堂→無難→正受→白隠と脈々と伝わってきている祖師禅を大事にしながらも、これを本部からの師家の出講が少ない地方禅会でも、維持・継続するための一助として実施している「ありがとう禅」を、この場でも実修してみたいと予告してから、ご提唱に入りました。「正受老人の哀しみ」と題してお話しをされましたので、略記します。

 (ア)資料1―栽松塔(墓碑)
 正受老人は、戦国武将で松代藩主の真田信之の子どもであるが、孽子げっし=嫡出でない子である。その経緯や生い立ちについては「禅味」555集・557集に掲載の長瀬哲飯山市教育長の講演記録に示されているが、真田家にとって必要の無い、正受老人にとっては居場所がない、思春期は惨めな思いで生きたのではないかと推察される。父を父として呼べないで、腹違いの兄たちは皆養子として一国一城の主としての地位が約束されていく姿を見て育った。幼少期の正受老人はあらゆる身分は剥奪され、夢も希望も無いところで育った。どれだけ恨み・怒り・苦しんだことか。言わば生まれながらに死んで生まれてきたとも言えるのではないか。勿論幼児の頃はそのような自覚はないものの、思春期には当然深い悲しみ、悩みに打ちひしがれ、そこから如何に自分の道を見出していったのか、周りの人たちは当然その事実を知った上で、深い愛情をもって支えていった。さながら戦国時代を生き延びた真田家の業縁ごうえんを、一身に背負い続けた生涯であったように思う。
 ところで、私(桐山老師)は室内で苧坂光龍老師に無字の公案を見て頂いたが、理屈ばかり言っていて中々透過できなかった。最後は「死んで生きるが禅の道じゃ、死んで来い」「大死一番、絶後に蘇生じゃ!」と叱咤激励された。お陰様で何とか少しばかりの蘇生を得ることができたように思うが、有り難いことである。

 

 しかし、正受老人は先に述べたように、生まれながらに死んで生まれてきた。その苦悩を越えたところから大死に飛び込み絶後に蘇生、または已に蘇生していたのだから、私(桐山老師)のような回り道をせずに、僅か1年と数ヶ月で無難禅師より見性を赦されたのではないかと推察する。その後も師無難の教えに従い名利を離れ、正念相続を工夫し続けた。

 (イ)資料2―垂語や漢詩
 「老僧13歳、この事(仏道)あるを知り〜中略〜今已に70になんなんとす。中間40年、万事を放下し世縁を杜絶し、専一に護持将来し、漸くここ5〜6年来、正念工夫の真個相続を獲得せり」と、「垂語」の中で自らの心境を述べている。(「日本の禅語録15無難・正受」市原豊太著 定光老師の法嗣)また、漢詩「偶成」(我見叢林風・挙家違法多・・・禅徒当勉励・一日莫空過)などにも、これらの精神(寸暇を惜しんでの刻苦勉励や、他への批判は同時に自己への厳しい反省)をみることができる。
 更に、漢詩「わす」(暮出禅扉呈信来・・・可愍あわれむべし不才混草莱そうらい・近日至斯知己少・・・荊山けいざん泣玉ぎょくになき独空哀・古今世上多如此・・・)について、中村博二(「正受老人の詩と偈頌」の著者で、正受庵での参禅者)はA・Bの二つの訳文を示している。A訳では、正受老人が自らの不運や非才を嘆き悲しんでいる訳になっているが、この数年後に中村が至り得たB訳では、信(たより)をくれた人(信州飯山から遠州掛川に移封された藩主松平忠喬か)に対して、荊山泣玉の故事(ものの真価を分かってくれる人は必ずいる)を引用しながら、不運や非才に負けてはならぬと励ましている内容の訳になり、見解が逆転している。この逆転は著者中村のたゆまない境涯の深化ともとれるが、桐山老師は正受老人の生き方や修行をきちんと追えばB訳の方が正鵠を射ているとする。深い哀しみを心底突き抜けた正受老人の、他者に対する菩提心や慈悲心が汲み取れるからである。

 (ウ)資料3―遺偈「坐死」
遺偈「坐死」を示しつつ、一文字一文字が丁寧にかつ厳しく書かれて、正受老人の禅心が余すところなく表されている。これは何時死んでもよいとか、坐禅して死ぬなどと言うことではなく、正受老人の境涯・正念相続という禅心が、この末後の一句に全部表わされている、と情感を籠めて力説された。無難禅師も、坐死の心を「生きながら 死人となりて 成り果てて 思いのままにするわざぞよき」と述べているが、これを各自の生活の上に実現していって欲しい、とまとめられた。

 Eありがとう禅

  ご提唱の後に、経行を兼ねて「ありがとう禅」を行いました。事前の趣旨説明に加え、「ありがとう禅」は三綱領をもっと簡単にしたものである、法然も言うように、心の底から真実にうらうらと、一念の疑念もなく唱えて頂きたい、との要点説明もありました。桐山老師の叩く木魚のリズムに合わせ、全員で禅堂内を歩きながら「ありがとう」を唱えました。


 この新しい試みが、どのように感じられ捉えられたかは各人によって違うと思いますが、とりわけ師家の出講の少ない地方禅会において、音声による三昧への導入・一助として検討して頂き、有効活用に繋げていって頂ければ発信元として有難いことです。

2.墓参

 飯島老師をご導師とし、参加者全員で般若心経・三綱領を唱え、線香を手向けました。正受老人の300年遠忌という記念の墓参は、季節がら紅葉した木々に「石の上に 桜の落ち葉うずたかし 正受老人ねむりています」(正受庵の境内にある島木赤彦の歌碑)の歌も想い起こされ、感慨新なるものがありました。

3.放散茶礼

 進行役を兼ねた土居さんは、「ここで今年一番の秋を感じた。新しいことを経験させてもらった。山岡鉄舟・高橋泥舟も大事に考え復興した正受庵を大切にしていきたい。」などと、苦難の時代を経て継続してきている正受庵の歴史も踏まえたご挨拶をされました。 会長就任2年目の飯島老師は、「今回の坐禅会は簡素化されていた。独参時には内参もあって素晴らしかった。阪神禅会からも参加があり力強い声援を頂いた。この正受庵でも皆さんで坐ってもらえるとよい。」などと、各地方禅会の実情にも目配りをしながら、全体を見渡した会長としてのお話を頂きました。
 各参加者からは、素晴らしい充実した坐禅会になった、出来れば来年も続けて欲しい、更に学んだり坐ったりしていきたい、などという積極的で前向きの声や、

 

 ここは臨済禅の聖地である、正受老人の墓石の形には慧忠国師の「無縫塔を作れ」の想いが、また、墓石に刻まれた「栽松塔」の文字には松をえた臨済の想いが重なる、などという永年の修行に裏付けられた古参者の含蓄ある確信的希望や決意も語られました。
 最後に本坐禅会を総括して、山本老師からは「本会は在家だが、本当の意味で臨済禅の伝統を繋いでいる。嗣法にはマンツーマンの指導で約10年かかるが、これを実際に成し遂げてきていて、今ここにも7名の嗣法者がいる。釈尊自身が山で悟って社会に出て法を弘めたように、ここにいる皆さんが本物を繋いでいって欲しい。お互いに禅によって真実のいのちに目覚め、社会生活に活かして頂きたい。」などと誠心のお垂示を頂きました。

4.おわりに

 参加者及び陰で支えて下さった皆様方のお力により、3年ぶりでしかも記念の年に新しい試みを加えた坐禅会も、無事に終了することができました。ありがとうございました。終了後の出来事も少し記します。各老師方を囲んでの慰労懇親会を、宿泊所でもある斑尾高原ホテルで行いました。阪神禅会の伊東進さんによる乾杯の音頭で始まり、11名の参加者は、禅の事・近況報告・社会情勢・等々に話の花を咲かせ盛り上がりました。

 

 ところで、前回(平成30年秋)の正受庵坐禅会での課題の一つが、正受庵での坐禅会を定例化できないか、というものでした。この課題に対する展望が、今回の実施によって大きく開けてきたように思われます。引き続き、多くの関係者のご協力ご支援が不可欠になりますが、期待の芽は膨らむばかりです。

★ 余禄

 坐禅会の翌日は、宿泊ホテルからそれぞれの目的地に向かいましたが、山本老師は一昨年急逝した鈴木比砂夫さんのお参りのために、桐山老師運転のお車で鈴木さんのご自宅を訪問されました。鈴木さんは、生前山本老師に師事して熱心に修行をするとともに、自分の自家用車による老師の送迎や正受庵坐禅会の開催等でも先頭に立って諸準備を行うなど、行動の人でした。

 

 山本老師は、鈴木さんの遺影の前で、ねんごろに話し掛けられたりお経を唱えられたりしました。また、悲しみや困惑を抱きながらも懸命に生きていこうとする鈴木さんの奥様に対しても、「ガットをして打たしめよ」(柿の実が熟すると自然に落下するように、ものごとは時宜を得て行うと、無理なく自然体でいながら大きな力が発揮できてしまう)を引用して、温かく励まされていました。ご縁を大切にされたひとときでした。



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