第1回正受庵坐禅会(2016年10月2日)

 今年は白隠禅師250年遠諱の節目の年ということで、10月と11月は白隠ゆかりの正受庵で坐禅会を行うこととしました。時折秋の涼風が入る由緒ある禅堂で、一般参加者を含め17名で2炷の坐禅を行いました。その後、桐山主宰にこの会場にふさわしく「白隠和尚坐禅和讃」の提唱をして頂きました。伝統ある禅堂と参加者の熱気もあってか、リズムとテンポもよく、桐山白隠かと思わせる力強い提唱でありました。本堂では、タイミングよく、正受老人や白隠の直筆の書・画が展示されていました。

 茶礼時に、皆さんに感想を述べてもらいました。落ち着いて気持ちよく坐れた、すっきりと爽やかに坐れて楽しかった、という感想が多かったです。一方、経行を入れるとよい、という声もあったので、次回の11月6日に生かしたいと思います。この日は、更に多くの参加者を迎えての坐禅会になることを、今から期待しています。 (文責 鈴木)





           白隠蹴落し坂


第2回正受庵坐禅会(2016年11月6日)

 今回は釈迦牟尼会主催ということで、東京方面から老師と老師の奥様を含めて十一名の 方々にご参加いただき、総勢二十三名で盛会に行われました。

                正受庵本堂

 午前中は2炷の坐禅を行いました。東京方面の方は二柱目から合流していただき、独参。続いて長瀬 先生の正受老人についての講演。昼食は飯山市名物の笹寿司をいただき、休憩時を利用して住職の案内で境内や遺跡の見学をしました。
 午後も2炷の坐禅と独参、ご提唱は白隠和尚坐禅和讃で、正受老人と白隠禅師に関わってお話していただきました。

 茶礼では、土居さんより、釈迦牟尼会東京方面の出席者の紹介があり、それぞれ自己紹介して頂き、長野禅会の人は桐山さんより紹介してもらいました。皆さん正受庵という名刹での坐禅で、印象深く充実し体験をしていただけたようで、長野禅会としてもほっとし ています。初めて坐禅をする方や、初心者からベテランまでの参加者で、日程的にもやや慌ただしい坐禅会になり、もう少し余裕をもった坐禅会になるように次回は考えたいと思 います。

 その後、野沢温泉の常磐屋にて、老師ご夫妻、鈴木、桐山夫妻、東京から三井、岡田様を交えて、楽しい宴を持つことができ感謝の限りです。

  ★講演「正受老人に学ぶ」(要旨)
          ……長瀬 哲先生 (飯山市教育長)

 正受老人の生まれは真田丸でもご承知の通り、松代藩主初代の信之の側室の子供であった。そのために飯山藩主佐久間勝次室であった姉の援助を受けたものと思われる。寛永19年(1642年9月飯山城中で生まれる。幼名は不明。
 19才で無難禅師のもとで出家し、20才で印可を受け道鏡恵端とする。35才で至道無難禅師が寂すと、再度帰飯し正受庵に住して母を招き出家させる。
 67才の4月に白隠禅師が正受庵に来る(白隠24才)。80才にして正受老人入滅。
 (ご講演は正受老人の詩や偈頌の紹介を通して、厳しい求道生活や眞正の仏法についてのお話をしていただきました。紙面の許す限り紹介いたします。)

 香語(白隠69才の時、正受老人の33回忌を行った際の言葉)
  掀翻点源一滴流
  飯山深處使人愁
  嫉焔妬火懶拈出
  留與兒孫結寇讎


 香語訳(資料より)
 正受老人は禅などという鋳型は手に高くさし上げてひっくり返してしまう。奥信濃の山深い飯山を思うと、腸(はらわた)が裂けるようだ。

 

嫉妬の焔を燃やして努力してみても、正受老人には到底及びもつかない。この恨みは自分の弟子達に託して正受老人と仇敵の関係を結ばせて果たすより致し方ない。

※ いかに白隠禅師が正受老人を信じていたか、この恨みの言葉に隠されているのが分かる。最低の教育は知っていることを教えるだけの教育。次は恩を感じさせる教育。最高の教育は恨みを遺す教育と言われている。

 偶成 (ふと思いついてできた詩)
 我れ叢林の風を見るに、家を上げて法に違うもの多し。庭には珍しい樹木を植え、池には緑の銭荷(せんか)を放つ。昼は偏に名利に耽り、夜は(みだ)れて愛河に溺る。 親しみを厚くして富子に()い、(みょう)を説いて檀那を(たぶら)かす。背後 邪欲を計り、面前 仏陀念ず。憐れむべし、此くの如き者。烈祖も伊を如何にせん。己に克は古 猶少なり。人に求むる、今已に多し。
 禅人 当に勉励すべし。一日も空しく過ごす莫かれ。(原文は漢文)
 ※ 正受老人の厳しさが感じられる。  

坐死
  末後の一句 死急難道
  言無言言  不道不道
 ※死の寸前、禅を生きておられる。

  ★提唱 「白隠禅師と正受老人」(要旨)
         ……釈迦牟尼会会長  無得龍廣老師

 白隠禅師のお陰で、この正受庵で坐禅会ができることは大変幸せである。「衆生本来仏なり・・・。」
 仏とはどういうものなのか、白隠禅師は和讃のなかでやさしく説いておられる。衆生本来仏なり、実際の生活は誤りの中にあり、不完全であることが完全なのである。現象を正しく証明しているのが仏なり。そのままの心がはたらく、コンコン(台を叩いて)、これが証明している。垣根が無く、過去も未来もなく、無心とは私心の無いことであり、それが仏心。それに目覚めることである。
 正受老人は15才で体得された。しかしそれを自在にできるようになったのは60才を過ぎてからだと言っている。仏法が本当に分かると、生の時は生のように、死の時は死のようにはたらく。
 坐禅が本当に分かれば菩薩となり、求めなくてもちゃんと心が働いている。無心にどんな状況も乗り越えていくことができる。 私無き念、正しい道を全うしていく、水の心になっていく、特別のことでは無い。これで一切は問題ない。  (文責 鈴木 桐山)   





               正受庵坐禅堂



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