3.唯識の三性説とは何か
唯識思想は「三性説」と「阿頼耶識説」、そして「唯識観の体得」という三つの柱で成り立っています。
三性説は「縁起したものは空である。」という悟りの内容を、修行の深浅に応じて三種の見方で説明したもので、修行者の指針となるように段階を踏んでまとめられています。そうした意味で唯識を学ぼうとする修行者にとっては大変参考になる説であると思います。
さて、ここでは、世親の代表作である『唯識三十頌』(注3)を取り上げ、これを手掛かりとして唯識思想の要点を紹介したいと思います。私自身としては、これを読み解いていくという参究の連続ですが、禅の視点から理解できたところを、できるだけ簡潔に述べてみたいと思います。
(1)遍計所執性(仮構された存在形態)(注4)
遍計所執性について『唯識三十頌』に次のように述べられています。
『さまざまな思惟によってさまざまの物が思惟されるが、その思惟された
ものは仮構された存在形態(編計所執性)である。それは実在しない。』(20頌)(服部正明現代語訳、以下同じ)(注2)
玄奘訳では遍計所執性と訳されていますが、遍計とは分別ということで、言葉による分別によって、全ての「ものごと」を思い計り、それに実体があると思い込んでいる見方です。それは私たちの普通のものの見方、考え方(世俗諦)であり、自分が見ているように「ものごと」が在ると信じて疑わないのです。しかし悟った人から見たら(勝義諦)、それは言葉によって仮構された世界であり、実体としては存在しないと言うのです。
言葉の虚構性については「縁起と空 その4」に述べてありますので、参照してください。
(2)依他起性(他に依存する存在形態)
依他起性とは縁起性と同じ意味です。縁起とは全ての「ものごと」は相互に依存する関係で成り立っているということでした。縁起については前稿の「縁起と空 その1〜4」で詳しく述べてきましたので参照してください。その理解の上に立って、ここでは中観と唯識における縁起観の相違について考えてみたいと思います。
さて、依他起性については『唯識三十頌』に次のように説明されています。
『依他起性の自性は、分別作用の縁によって生まれる。』(21頌)
この意味は、依他起性(縁起性)が分別作用によって生まれる、ということですが、先の遍計所執性は分別によるものですし、依他起性も分別によって生まれると言うのです。これはどういうことでしょうか。
中観派は分別を超えて縁起を獲得するのですから、縁起と分別は相容れないものです。そうすると中観と唯識では、縁起を全く違った意味に捉えていることになります。唯識では、縁起と分別とが同等に扱われています、このことは一切法が「心」(識)の表れとする唯識にとっては当然のことかもしれません。つまり、あらゆる「ものごと」は「心」(識)の表れであり、分別作用によって出現している。しかもそれは縁起しているものであると言いたいのです。そうすると、縁起しているものは「空」であるという中観思想に合致します。こうして唯識では「識」の縁起性を強調して、依他起性と命名したのです。
唯識を行ずる修行者にとっては、瞑想によって「心」の働きである「識」の依他起性を捉えることによって、「識」を転じて解脱するという修行の構図が出来上がったのです。つまり「識」の依他起性(縁起性)を見る者は「空」を捉え、「法」を見ることができるのです。
このことを三性説で明らかにしておいて、次に修行の道筋としてのアーラヤ識説を展開しようとする意図があると思います。
(3)円成実性(完成された存在形態)
円成実性について『唯識三十頌』には、次のように述べられています。
『完成されたもの(円成実性)とは、依他起性が編計所執性を常に離れ
ていることである。』(21頌)
『円成実性がとらえられなければ、依他起性も認識されない。永遠なる
ものと無常との関係の如し。』(22頌)
完成されたものとは「空・法性」にほかなりません。それを唯識では独自の言葉で円成実性と表現しました。修行者はそれに向かって唯識観を行じていくと「識」の依他起性(縁起性)が捉えられるようになり、最後は遍計所執性を完全に離れ、一切は「識」のみという「ありのままの世界」が修行者に顕現するのです。さらに依他起性と円成実性は不即不離の関係で、円成実性が捉えられなければ依他起性も捉えることができないというのです。
さて唯識ではものの見方を、このような三種類に分けて捉えているのですが、その中心に在るのが依他起性です。即ち依他起性によって遍計所執性の本質が捉えられ、同じく依他起性によって円成実性が実現されるという修行の中継地点となっていると言えそうです。
このことを「唯識三性図」に表してみましたので、三性説の解説と合わせて見ていただければ、視覚を通してより直感的に理解できるのではないかと思います。
@仏の教えを聞き、自分の見方や考えは虚妄であるということに気付いて修行を開始する。
A瞑想(禅定)によって自我を忘じていくと、全ての「ものごと」や「識」の背景にある依他起性(縁起性)を垣間見ることができる。
B「識」の依他起性を捉えることができるようになるが、まだ完全に遍計所執性を離れてはいない。
C依他起性と残存する遍計所執性との葛藤によって漸次空性の全貌を捉え始める。
D全ては自己であり、「識」のみであることを悟り、「識」の空性に安住することができる。それは無自性空・円成実性である。
◇ 唯識思想については素人の怖いもの知らずで、三性説の全貌が一目で捉えられるように図に表してみたり、修行の深まりにつれて番号を付け、それに見合う境涯を言葉で表してみたりしましたが、これが伝統的な唯識思想から見て適切かどうか全く自信がありません。読者のご判読をお願いします。
(注1)瑜伽行唯識派とも言われているように、瑜伽行は唯識の基礎となっている。ヨーガの実践(瑜伽行)は、2〜4世紀ころ盛んになり、その実践方法はヨーガスートラにまとめられている。戒律や呼吸法、瞑想など8階梯があり、瞑想(静慮)がその中核を成している。
(注2)仏教の思想4認識と超越<唯識>服部正明・上山春平共著・角川書店
法相二巻抄を読む・唯識とは何か 横山紘一著・春秋社
唯識の心理学 岡野守也著・・・・・・・・・・青土社
唯識入門 高崎直道著・・・・・・・・・・・・春秋社
唯識の探求 竹村牧男著・・・・・・・・・・・春秋社
(注3)唯識思想は世親(バスバンドウ)によって大成されたと言われている。この『唯識三十頌』は彼の晩年の代表作であり、唯識思想の全貌が三十の詩偈に集約されている。
(注4)「編計所執性」は玄奘三蔵訳、( )内は服部正明氏の訳で、言葉として大変分かり易いので、「仏教の思想4認識と超越」より引用併記した。
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