桐 山 紘 一

◆唯だ識のみであること

唯識の魅力

 禅では「三界唯心」と言い、「即心是仏」「直指人心見性成仏」「無心」などと言う。また、華厳経十地品には「三界虚妄 但是心作・・・」とある。このように言われる「心」とはどのようなものであろうか。
 私はこれらの言葉を聞く度に、自らの「心」と比べながら、よく納得していないまま過ごしてきてしまいました。禅で言われている「心」は、その背景に唯識思想があるようにも思われますので、その解決の糸口を唯識思想に求めてみたのです。
 また、「心」には諸法の実相・真如としての「心」と、喜怒哀楽の衆生心としての「心」の二つがあるように思われますが、悟りの世界からみれば真理としての心も衆生としての心も、凡聖一如ですから全く一つの仏心であるとも言えます。

 このように禅では「心」を問題として提示しておりますが、それは説明すると言うより、むしろ働きや体験としての真実を丸ごと提示し、おおよそ教理を説くことはしないのです。言葉による説明では、返って実在から離れてしまうということを嫌い、「心」の中身を言葉で分析して理論として説明しないのです。
 これに対して唯識では大乗の「空」を「心」の中の現象に当てはめて、「識」として緻密に分析して説明しようとします。
 今「心の中」と言いましたが、それならば「心の外」があるのかということになりますが、すべては識(心)であるということを捉えるのが唯識ですから、悟った立場からすれば心の外は無いということになります。

 さて、禅と唯識その一では、「三性説」を概観し、その二では、アーラヤ識を中心にした八識の構造と51個の心所を列記し、その働き(転変)としての心(識)を概観してきました。  私はその学びの過程で、自らの心を唯識の心(識)に照らして見ていくと、喜怒哀楽、貪瞋癡の執着心などが、起こってくる理由や仕組みが納得できるので、何故かその心に安住しながら冷静に対応している自分を発見することができたのです。心(識)の構造と働きを詳しく知ることは、自らの安心・安住への糸口になるのではないかと考えます。  また坐禅を通して深層心を見つめていくと、人間本具のマナ識による自我意識の様相がはっきりと捉えられるようになり、苦しみの原因である自我へのとらわれや、煩悩を克服する手立てが明らかになってきます。(禅と唯識その二、三世業報の理を参照ください)
 さらに私自身は勿論ですが、心に傷を負ってそこから脱出できないでいる人を唯識の考え方を活用することによって適切に救済できると思います。また認知行動療法や最近話題になっているマインドフルネスは禅及び唯識思想をベースにしているのではないかと思います。

唯識無境ということ・・・

 「現象そのものが心であり、心が在って現象は向こうに在ると思っているがそうではない・・・。」と、無得龍廣老師はご提唱で繰り返し述べられています。
 これが唯識の中心思想である「唯識無境」と言われていることで、これを捉えることが唯識思想及び瑜伽行の目的とするところであり、仏陀達の認識領域といわれていることです。
 通常私達は自分の心の外に物や現象があると思っていますが、そのような衆生の心を三性説では遍計所執性と言いました。外に在ると思っている物や現象は、五感や意識、さらには深層無意識であるアーラヤ識から表出された影像・表象であるというのです。それは虚妄なるもので実在しないというのです。

 さらに付け加えるべき大切なことがあります。
 それは、各自が捉えている影像、表象としての物・事は、各自全く違う経験や知識、思いが種子としてアーラヤ識に熏習されてきたものですから、それが機縁に乗じてその人の物・事として顕現してくるのですから、人によって全く違う影像を映し出しているのです。ということは、人は皆、同じ世界に生きていると普通は思っていますが、それは間違いで、正しくはそれぞれ全く違った自分だけの世界に生きているということになります。

 実際私たちは、同じ兄弟でも全く違うものの見方や生き方をしている事実を知っていますし、教育の場面では、一人一人は全く違った経験を積んだ人として、その人の経験や個性を大切にする教育に心がけています。
 もう少し丁寧に言うと、私たちは自分が捉えているように物・事は存在していないということです。そのことを本当に正しい事実として認識できると、争いや苦しみを乗り越える新しい人生・世界が開かれていくのではないでしょうか。

            『(ただ)識のみであること』

 『唯識三十頌』に沿って、唯識思想を概観してきましたが、『三十頌』の最後には、瞑想(禅定)や唯識観、さらに正聞熏習の力によって到達した唯識の世界観が簡潔に述べられています。

 私はこの部分を初めて見た時に、これは全く禅だと思いました。竹村牧男氏のサンスクリト原文からの苦心の名訳ですが、この主題の部分を取り上げ、謹んで読者と共に音読・熟読・味読したいと思います。(唯識の探求 竹村牧男著 春秋社より引用)

 『た唯だ識のみであることに識が住しないかぎり、その間は二取のずいみん随眠は死滅しない。』(26頌)

 『これは唯だ識のみにほかならない、というのもまた、実に対象認識故に、〔いはば認識主観の〕面前に何ものかを立てるので、「唯だそれのみ」にはなお住していない。』(27頌)

 『識が、所縁(対象)を得ることがまさに無くなったとき、唯だ識のみということに住したのである。〔というのも〕所取がないとき、それを取ることがないからである。』(28頌)

 『これは無心であり、無所得(むしょとく)である。それはまた出世間の智である。(てん)()である。二種の()(じゅう)を断じたが故に。』(29頌)

 ◇26頌の『()だ識のみである』とは、()だ識としての表象があるのみで、外界の存在物はないという唯識論一般を述べているのかと最初は思いましたが、そのような意味もあるのでしょうが、ここでは『唯識三十頌』の主題を提示しているように思いますので、禅の視点から具体的に考察してみましょう。

 (すなわ)ち『()だ識のみである』とは、見れば見っ放しで、見るという意識を離れて、()だ見ているということです。考えれば考えっ放し、聞こえれば聞こえっ放しで、そのものに成り切っているということです。それが「()だ識のみである」と言うことになります。

 あえて理論的に言い直してみると、それは見る主体(主観)が対象(客観)を見て、その物の名称や形状などを相対的に認識するという事ではなく、見る主体は対象そのものとなって、(ただ)無心に見ていることだけがそこに在るということです。唯識で言うと見分(けんぶん)(主観)のみがあって、相分(そうぶん)(客観)が無いという事になります。芭蕉の俳句がそれをよく表現しているので紹介しましょう。

  『よく見ればなずな薺花咲く垣根かな』

 芭蕉は我を忘れて、可憐な薺の花を見ているのですが、ハッと我に返ってよく見たら、つまり見ようとして見たら、「こんな所に薺が咲いていた」と気がついて(意識して)それを客観化し、言葉で表現したのです。このような見方は文学として適切かどうかはわかりませんが・・・。

 ハッと我に返って概念化する以前の、()だ無心に見ている自己は、完全に薺の全貌を捉えてしまっている(まさ)にその時です。それは刹那生滅している縁起(識の転変)の頂点で、そこには「即今(そっこん)の自己」(注1)という「働き」だけがあります。このような場合、()だ見ているという「働き」として捉えるか、それを内なる「識」として捉えるかが、禅と唯識の違いであろうかと思いますが、これは全く同じことの捉え方の違いではないかと思います。

 唯識では、先に述べた相対的に「見ようとして見る」意識と、この()だ見ているという無意識、つまり「見ようとしないでも見てしまっている」と言う意識の、二つの意識があるように思いますが、ここでは後者の「見ようとしないでも完全に見てしまっている」という無分別の意識を、「()だ識のみである」と、言っているのではないかと禅の視点から捉えてみました。

 これが唯識の、ヨーガを専らにする厳しい実践によって、自覚的に到達しようとしている唯識観ではないかと考えます。  ◇26頌の『二取の随眠』とは、自我(主観)が在ると思うことが一つ、それに対応して発生する虚妄なる世界(客観)を、実在と誤認してしまうことの、二つの熏習種子(煩悩)のことです。それが人間のあらゆる苦悩の根源ですが、識のみに住しない限りは、それは死滅しないということです。

 ◇27頌をさらに意訳すると、全ては識としての表象があるのみで、外界には存在物はないという唯識の一般論を理解しただけでは、まだ識のみに住しているとは言えない。このような見方は三性説で言ったら、遍計所執性の見方です。

 ◇28頌を意訳すると、識に対するゥ縁(対象)を得ることが無くなったとき「識のみに住した」というのです。ゥ縁(対象)がなくなると、それを得る必要がなくなるからです。識が識のみに住したときに、識は対象がなくなり無分別智として働き出します。それは縁起の働きそのもので、禅では「無心」による「即今・当処・自己」という行動原理として捉えるのが特徴的です。これは三性説で言ったら依他起性に当たります。

 ◇29頌を意訳すると、無知と煩悩の二つの障害(二種の粗重)を離れると、それが無心であり無所得であり、出世見の智(仏の智慧)であり、転衣である・・・と。これが円成実性ということになります。

 ◇『無心』とは、先にも述べましたが、見れば見っ放し、見るという意識を超えてた唯だ見ているということです。考えれば考えっ放し、聞こえれば聞こえっ放しで、そのものに成り切っているということです。それが「た唯だ識のみである」と言うことであり、これが唯識観の目標としているところではないかと思います。

 この二種の粗重を離れるために、瑜伽行派では厳しいヨーガを専らにする修行 が繰り返されることでしょう。これは現代に伝わる禅でも全く同じではないかと思います。特に公案による修行(看話禅)の、言葉から入って公案を拈定するという参究の仕方は、瑜伽行における観法と全く同じではないかと思います。つまり公案を徹底的に追求して完全にそれと一枚に成り切り、その究極の所を超出することによって法身に目覚めるということです。唯識で言ったら虚妄なる分別としての識を超えて「た唯だ識のみであること」、つまり「唯識性に入る」ということに他なりません。その境涯を禅的に表現したら「識に入って識に在らず」ということになるでしょう。

 ◇『無所得』とは、自由自在のこと。禅では「ありのままの自己」などと言われています。

 ◇『出世間の智』とは、円成実性であり、無分別智ということでもあります。

 ◇『転依』とは、主客二元を依り所にした認識が、唯識観の継続によって無分 別智へと転換することです。それは三性説で言ったら円成実性の実現であり、 これこそがが「た唯だ識のみである」ということに他なりません。このことを唯 識思想では、転識得智と言っております。

 ◇「転識得智」とは、八識が転じて四智を得ることで、『成唯識論』には詳説され ています。転衣の状況を図示して、この稿のまとめとさせていただきます。

  アーラヤ識・・→大円鏡智(円鏡のごとく清浄な智、無分別智)
  マナ識・・・・→平等性智(自我意識をすて自他平等とみる智)
  第六意識・・・→妙観察智(ありのままに物事の相を洞察する智)
  前五識・・・・→成所作智(衆生済度のために種々の仏業を現ずる智)
           (図示は高橋直道著「唯識入門」より引用)

 (注1)「即今の自己」とは、禅語で正式には「即今・当処・自己」と言われている。現代風に言ったら「今、ここ、自分」ということ。




戻る目次ページへ戻る     戻るトップページに戻る