唯識の魅力
禅では「三界唯心」と言い、「即心是仏」「直指人心見性成仏」「無心」などと言う。また、華厳経十地品には「三界虚妄 但是心作・・・」とある。このように言われる「心」とはどのようなものであろうか。
私はこれらの言葉を聞く度に、自らの「心」と比べながら、よく納得していないまま過ごしてきてしまいました。禅で言われている「心」は、その背景に唯識思想があるようにも思われますので、その解決の糸口を唯識思想に求めてみたのです。
また、「心」には諸法の実相・真如としての「心」と、喜怒哀楽の衆生心としての「心」の二つがあるように思われますが、悟りの世界からみれば真理としての心も衆生としての心も、凡聖一如ですから全く一つの仏心であるとも言えます。
このように禅では「心」を問題として提示しておりますが、それは説明すると言うより、むしろ働きや体験としての真実を丸ごと提示し、おおよそ教理を説くことはしないのです。言葉による説明では、返って実在から離れてしまうということを嫌い、「心」の中身を言葉で分析して理論として説明しないのです。
これに対して唯識では大乗の「空」を「心」の中の現象に当てはめて、「識」として緻密に分析して説明しようとします。
今「心の中」と言いましたが、それならば「心の外」があるのかということになりますが、すべては識(心)であるということを捉えるのが唯識ですから、悟った立場からすれば心の外は無いということになります。
さて、禅と唯識その一では、「三性説」を概観し、その二では、アーラヤ識を中心にした八識の構造と51個の心所を列記し、その働き(転変)としての心(識)を概観してきました。
私はその学びの過程で、自らの心を唯識の心(識)に照らして見ていくと、喜怒哀楽、貪瞋癡の執着心などが、起こってくる理由や仕組みが納得できるので、何故かその心に安住しながら冷静に対応している自分を発見することができたのです。心(識)の構造と働きを詳しく知ることは、自らの安心・安住への糸口になるのではないかと考えます。
また坐禅を通して深層心を見つめていくと、人間本具のマナ識による自我意識の様相がはっきりと捉えられるようになり、苦しみの原因である自我へのとらわれや、煩悩を克服する手立てが明らかになってきます。(禅と唯識その二、三世業報の理を参照ください)
さらに私自身は勿論ですが、心に傷を負ってそこから脱出できないでいる人を唯識の考え方を活用することによって適切に救済できると思います。また認知行動療法や最近話題になっているマインドフルネスは禅及び唯識思想をベースにしているのではないかと思います。
唯識無境ということ・・・
「現象そのものが心であり、心が在って現象は向こうに在ると思っているがそうではない・・・。」と、無得龍廣老師はご提唱で繰り返し述べられています。
これが唯識の中心思想である「唯識無境」と言われていることで、これを捉えることが唯識思想及び瑜伽行の目的とするところであり、仏陀達の認識領域といわれていることです。
通常私達は自分の心の外に物や現象があると思っていますが、そのような衆生の心を三性説では遍計所執性と言いました。外に在ると思っている物や現象は、五感や意識、さらには深層無意識であるアーラヤ識から表出された影像・表象であるというのです。それは虚妄なるもので実在しないというのです。
さらに付け加えるべき大切なことがあります。
それは、各自が捉えている影像、表象としての物・事は、各自全く違う経験や知識、思いが種子としてアーラヤ識に熏習されてきたものですから、それが機縁に乗じてその人の物・事として顕現してくるのですから、人によって全く違う影像を映し出しているのです。ということは、人は皆、同じ世界に生きていると普通は思っていますが、それは間違いで、正しくはそれぞれ全く違った自分だけの世界に生きているということになります。
実際私たちは、同じ兄弟でも全く違うものの見方や生き方をしている事実を知っていますし、教育の場面では、一人一人は全く違った経験を積んだ人として、その人の経験や個性を大切にする教育に心がけています。
もう少し丁寧に言うと、私たちは自分が捉えているように物・事は存在していないということです。そのことを本当に正しい事実として認識できると、争いや苦しみを乗り越える新しい人生・世界が開かれていくのではないでしょうか。
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