『(ただ)識のみであること』                                 桐 山 紘 一

 『唯識三十頌』に沿って、唯識思想を概観してきましたが、『三十頌』の最後には、瞑想(禅定)や唯識観、さらに正聞熏習の力によって到達した唯識の世界観が簡潔に述べられています。

 私はこの部分を初めて見た時に、これは全く禅だと思いました。竹村牧男氏のサンスクリト原文からの苦心の名訳ですが、この主題の部分を取り上げ、謹んで読者と共に音読・熟読・味読したいと思います。(唯識の探求 竹村牧男著 春秋社より引用)

 『た唯だ識のみであることに識が住しないかぎり、その間は二取のずいみん随眠は死滅しない。』(26頌)

 『これは唯だ識のみにほかならない、というのもまた、実に対象認識故に、〔いはば認識主観の〕面前に何ものかを立てるので、「唯だそれのみ」にはなお住していない。』(27頌)

 『識が、所縁(対象)を得ることがまさに無くなったとき、唯だ識のみということに住したのである。〔というのも〕所取がないとき、それを取ることがないからである。』(28頌)

 『これは無心であり、無所得(むしょとく)である。それはまた出世間の智である。(てん)()である。二種の()(じゅう)を断じたが故に。』(29頌)

 ◇26頌の『()だ識のみである』とは、()だ識としての表象があるのみで、外界の存在物はないという唯識論一般を述べているのかと最初は思いましたが、そのような意味もあるのでしょうが、ここでは『唯識三十頌』の主題を提示しているように思いますので、禅の視点から具体的に考察してみましょう。

 (すなわ)ち『()だ識のみである』とは、見れば見っ放しで、見るという意識を離れて、()だ見ているということです。考えれば考えっ放し、聞こえれば聞こえっ放しで、そのものに成り切っているということです。それが「()だ識のみである」と言うことになります。

 あえて理論的に言い直してみると、それは見る主体(主観)が対象(客観)を見て、その物の名称や形状などを相対的に認識するという事ではなく、見る主体は対象そのものとなって、(ただ)無心に見ていることだけがそこに在るということです。唯識で言うと見分(けんぶん)(主観)のみがあって、相分(そうぶん)(客観)が無いという事になります。芭蕉の俳句がそれをよく表現しているので紹介しましょう。

  『よく見ればなずな薺花咲く垣根かな』

 芭蕉は我を忘れて、可憐な薺の花を見ているのですが、ハッと我に返ってよく見たら、つまり見ようとして見たら、「こんな所に薺が咲いていた」と気がついて(意識して)それを客観化し、言葉で表現したのです。このような見方は文学として適切かどうかはわかりませんが・・・。

 ハッと我に返って概念化する以前の、()だ無心に見ている自己は、完全に薺の全貌を捉えてしまっている(まさ)にその時です。それは刹那生滅している縁起(識の転変)の頂点で、そこには「即今(そっこん)の自己」(注1)という「働き」だけがあります。このような場合、()だ見ているという「働き」として捉えるか、それを内なる「識」として捉えるかが、禅と唯識の違いであろうかと思いますが、これは全く同じことの捉え方の違いではないかと思います。

 唯識では、先に述べた相対的に「見ようとして見る」意識と、この()だ見ているという無意識、つまり「見ようとしないでも見てしまっている」と言う意識の、二つの意識があるように思いますが、ここでは後者の「見ようとしないでも完全に見てしまっている」という無分別の意識を、「()だ識のみである」と、言っているのではないかと禅の視点から捉えてみました。

 これが唯識の、ヨーガを専らにする厳しい実践によって、自覚的に到達しようとしている唯識観ではないかと考えます。  ◇26頌の『二取の随眠』とは、自我(主観)が在ると思うことが一つ、それに対応して発生する虚妄なる世界(客観)を、実在と誤認してしまうことの、二つの熏習種子(煩悩)のことです。それが人間のあらゆる苦悩の根源ですが、識のみに住しない限りは、それは死滅しないということです。

 ◇27頌をさらに意訳すると、全ては識としての表象があるのみで、外界には存在物はないという唯識の一般論を理解しただけでは、まだ識のみに住しているとは言えない。このような見方は三性説で言ったら、遍計所執性の見方です。

 ◇28頌を意訳すると、識に対するゥ縁(対象)を得ることが無くなったとき「識のみに住した」というのです。ゥ縁(対象)がなくなると、それを得る必要がなくなるからです。識が識のみに住したときに、識は対象がなくなり無分別智として働き出します。それは縁起の働きそのもので、禅では「無心」による「即今・当処・自己」という行動原理として捉えるのが特徴的です。これは三性説で言ったら依他起性に当たります。

 ◇29頌を意訳すると、無知と煩悩の二つの障害(二種の粗重)を離れると、それが無心であり無所得であり、出世見の智(仏の智慧)であり、転衣である・・・と。これが円成実性ということになります。

 ◇『無心』とは、先にも述べましたが、見れば見っ放し、見るという意識を超えてた唯だ見ているということです。考えれば考えっ放し、聞こえれば聞こえっ放しで、そのものに成り切っているということです。それが「た唯だ識のみである」と言うことであり、これが唯識観の目標としているところではないかと思います。

 この二種の粗重を離れるために、瑜伽行派では厳しいヨーガを専らにする修行 が繰り返されることでしょう。これは現代に伝わる禅でも全く同じではないかと思います。特に公案による修行(看話禅)の、言葉から入って公案を拈定するという参究の仕方は、瑜伽行における観法と全く同じではないかと思います。つまり公案を徹底的に追求して完全にそれと一枚に成り切り、その究極の所を超出することによって法身に目覚めるということです。唯識で言ったら虚妄なる分別としての識を超えて「た唯だ識のみであること」、つまり「唯識性に入る」ということに他なりません。その境涯を禅的に表現したら「識に入って識に在らず」ということになるでしょう。

 ◇『無所得』とは、自由自在のこと。禅では「ありのままの自己」などと言われています。

 ◇『出世間の智』とは、円成実性であり、無分別智ということでもあります。

 ◇『転依』とは、主客二元を依り所にした認識が、唯識観の継続によって無分 別智へと転換することです。それは三性説で言ったら円成実性の実現であり、 これこそがが「た唯だ識のみである」ということに他なりません。このことを唯 識思想では、転識得智と言っております。

 ◇「転識得智」とは、八識が転じて四智を得ることで、『成唯識論』には詳説され ています。転衣の状況を図示して、この稿のまとめとさせていただきます。

  アーラヤ識・・→大円鏡智(円鏡のごとく清浄な智、無分別智)
  マナ識・・・・→平等性智(自我意識をすて自他平等とみる智)
  第六意識・・・→妙観察智(ありのままに物事の相を洞察する智)
  前五識・・・・→成所作智(衆生済度のために種々の仏業を現ずる智)
           (図示は高橋直道著「唯識入門」より引用)

 (注1)「即今の自己」とは、禅語で正式には「即今・当処・自己」と言われている。現代風に言ったら「今、ここ、自分」ということ。




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