マナ識のはたらき                                 桐 山 紘 一

<自我意識を形成する>

 唯識三十頌の第5頌に、『マナ識は我の思量を自性とする』 とあります。
 マナ識は、アーラヤ識を対象にして、自我意識を形成することを本分としているということですが、自我意識とはどのようなものでしょうか。
 唯識では自我意識を後天的なものと先天的なものとに分けて捉えています。後天的なものとは自我が成長するにしたがって、ものごとを分別して相対的に捉えるようになりますが、それは言葉による虚妄なるものであり実体がないということでした。このように後天的に成長する自我意識は、ある意味で必要なものですが修行によって克服できると思われます。

 しかし先天的な自我意識とは、マナ識がアーラヤ識を対象にして構想される自我意識で、永遠の過去から現在に至るまで、深層自我意識として熏習され続け、しかも本能に属するということですから、生命活動を継続するには無くてはならない自己保存意識と言ってもよいでしょう。さらに無意識の領域ですから自己の意思に関わりなく現れてくるので、表層の六識ではコントロールできない大変やっかいな意識です。

<煩悩に覆われている>

 さて、マナ識は煩悩に覆われていて、次の四つの心所(根本煩悩)に相応して働き、単独または相互に関係し合って顕現するということです。
 「我癡(がち)とは、
 別名無明と言われており、縁起の理に無知であり、無我の理を知らないゆえに迷う。無意識の自我意識であり、常に活動していながら真実を覆い隠す。どれほど善行為を行っても常に汚れに満ちた行為となる。本能的衝動的なものではなく真理に迷う知的作用である。
 「我見」とは、
 自我が存在していると思い込んでいることで、深層自我意識の中心を成している執着心である。
 「我慢」とは、
 私は〜であるという自己存在意識を持ち、おごり高ぶる悪心を指す。
 「我愛」とは、
 日常生活においても様々な苦を生む原因となる。自我を愛する強烈な執着心であり、人間の根源的な苦しみである死への恐怖心をかき立てる根本原因であるという点で、我愛は否定されなければならない。これが無くならない限り生死輪廻の苦海をさまよい続ける。

 禅定(瞑想)によって表層意識を鎮め、深層自我意識を観察し続けることによって、自我には後天的自我意識と先天的で強力な自我意識があることを発見したのですが、この深刻な自我意識(我執)をマナ識の働きであると想定したのです。この発見と想定によって、唯識思想が確立したのではないかと思います。

<生命への執着心と死への恐怖>

 「縁起と空 その2」で述べたことと重複しますが、今度は先天的自我意識である「生命への執着心」とはどのようなものか、私の経験を例として再度取り上げてみたいと思います。
 それは平成26年7月のことでした。

 私は癌と宣告されました。癌であるはずがないと高を(くく)っていたので、思いもよらないことで大変なショックを受けました。人生における最大の危機が身近に迫ってきて、これから何が起こるかわからない。近いうちに死ぬかもしれないという不安と緊張と恐怖で、混沌とした状況が続き、夜も眠れませんでした。まさに人生苦の真っ只中といったところです。
 このように突き上げてくるような危機感や恐怖感はどこから出てくるのでしょうか。

 唯識で考えてみると、人間として本来具わっている命を守ろうとする自我意識が無意識の底から噴き出してきて、「癌で死ぬのではないか、死ぬのは恐ろしい、全ては無に帰してしまう」・・・と、唯々苦しんでいるのです。

 もう一つは、後天的な自我意識として、多くの人たちが癌によって苦しんで亡くなっていることを、私は目の当たりにして来ているので、癌になれば死ぬという恐怖心が、アーラヤ識に種子として熏習され続けていたのではないかと思います。それが突然の癌の告知によって、マナ識反応で増幅され、意識と五感に現れてきて、一時的なパニック状態に陥っていたのです。

<三時の業報の理>

 一時的なパニック状態と言いましたが、癌を告知されてから2〜3日経過すると、不安と緊張の苦しみから解放された感がありました。

 時が経過したので冷静さを取り戻したとも言えますが、少しは経験的に身に付いていた禅の生き方が彷彿と蘇ってきたのです。これは唯識の考え方からすれば、無意識(潜在意識)に種子として熏習されていた「(しょう)(もん )熏習(くん じゅう)種子」(注1)や禅経験の種子が、時を経て呼び覚まされたのではないかと考えます。

 さて、この後天的な自我意識と、先の命を守ろうとする先天的な自我意識との顕在化してくる時間差については、唯識の範疇でもある「三時業」(倶舎論分別業本品)の考え方に合致します。

 道元禅師は正法眼蔵「三時業の巻」で、「三時の業報の理」を究め尽くすことの大切さを強調されています。すなわち三時とは「順現報受(じゅんげんほうじゅ)」「順次生受(じゅんじ しょううじゅ)」「順後次受(じゅんごじじゅ)」です。

 「順現報受」とは、業(行為)の報いは現世に現れるということですが、即時に現れるというように拡大解釈して・・・、私は医師から癌を告知され、その結果は五感を通して即時に現れてきて、パニック状態に陥ったのですから「順現報受」です。

 「順次生受」とは、業の報いは次の世に現れるということですが、やはり拡大解釈して・・・、私のパニック状態は2〜3日して沈静化してきました。それはアーラヤ識に種子として熏習されていた「正聞熏習種子」や禅経験の種子などが時を経て呼び覚まされたのですから、それは暫く時間が経過して現れてきたので「順次生受」と捉えることができます。
 どうしてこのように前後して報いが現れるのかというと、死ぬのではないかという危機感によって、命を守ろうとする先天的自我意識(生命への執着心)が最優先に緊急発動し、続いて無意識内に印象づけられていた仏教の知識や禅経験の種子が、数日という時間の後に顕勢化してきたのです。それは「順次生受」と考えることができます。

 最後の「順後次受」の本来の意味は、来世以降に現れる報いということですが、このように唯識では永劫の過去から無限の未来までの命の流れを問題としております。それは先天的な自我意識が命と共に受け継がれ、働き続けているということです。

 ここまでマナ識の先天的自我意識を中心に、それはどのようなもので、どのように起こってくるかを事例を通して具体的に探ってきました。アーラヤ識とマナ識を想定することによって、識をこのような識の転変として捉えるというのが唯識の唯識たる所以です。特に人間本具の生命への執着心、そこから溢れ出てくる死への恐怖や苦しみは、誰にでも起こり得るものであるということが、唯識思想を通してよく理解できます。

 死の恐れをどのように乗り超えたらよいのでしょうか、そのために仏教の教えや知識、禅経験が如何に大きな働きをするか、「縁起と空 その2」(4,癌の克服に向かって)に、私の体験を述べさせていただきましたので参照してください。

 (注1)「正聞熏習種子」とは、仏の教えを聞くことによって正しい教えがアーラヤ識に種子として熏習され、この力を元にして修行が前進する。



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