<無覆無記というはたらき>
種子として熏習されるということは、アーラヤ識の育む力によって種子が芽を出し成長するということではありません。アーラヤ識自身には種子を育むといった力は無いのですが、全てをそのまま鏡に映し出すようにして、善悪平等に熏習するという働きだけがあります。これが無覆無記というアーラヤ識の素晴らしい働きですが、要するに記録専門の大容量データボックスであると言えます。記録されたデータを変えるのは、意識の表層で営まれる私達の行為であり、その行為によって生まれた新しい種子がアーラヤ識に熏習されていくのです。このような働きによってアーラヤ識の内容が微妙に変化していくのではないかと考えます。こうして、アーラヤ識の質が向上するかどうかは私たちの行為によって決まるというわけです。
私たちはアーラや識のこのような機能によって、意識的に努力をして善の種子をアーラヤ識に満たしていけば、自らを変化させ向上させることができ、さらには自我の意識を乗り超えて、いつかは悟りの智慧に到達できるというのです。これが唯識思想の素晴らしいところです。
唯識の心所は、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の6つの群に分類されている。(以下唯識の探求 竹内牧男著より引用)
遍行・・・触・作意・受・想・思(八識のどの識とも相応する)
別境・・・欲・勝解・念・定・慧(特別の対象に起こる)
善・・・・信・慚・愧・ 無貪・ 無瞋・無癡・勤・軽安・ 不放逸・行捨・不害
(将来、楽をもたらすもの)
煩悩・・・貪・瞋・癡・慢・疑・悪見(煩悩も随煩悩も将来苦をもたらすもの)
随煩悩・・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・嬌・無慚・無愧・悼挙・昏沈
・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知
不定・・・悔・眠・尋・伺(どこにも分類できないもの)
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