桐 山 紘 一

◆アーラヤ識の働き

<唯識思想へのいざない>
 禅は、物事になり切ることによって、「即今只今の自己」をとらえることにあると言ってもよいでしょう。坐禅を通してそれを凝視していくと、過去に経験した苦しみや悔恨、未来への欲望、不安や迷いに等が噴出してきて、即今の実在になり切ることができず、混迷を深めている現実に気づかされます。
 このようなとらわれや迷い、苦しみの心は、どのようにして、どこから発生するのでしょうか。そのよってきたる心の構造や働きを、唯識思想は体系化された理論で見事に描き出し、それを越える道筋を明らかにしています。

 <心(識)の構造と働き>
 『唯識三十頌』の冒頭では、心(識)のはたらきと構造を次のように述べています。
 『自我と存在の相は、仮に想定されたものである。
それは識によって転変されたものである。識の転変は三種類ある。』(1頌)
 『異熟(いじゅく)(アーラヤ識)と、思量(マナ識)と、意識と眼、耳、鼻、舌、身の五感の識である。初めはアーラヤ識(阿頼耶(あらや)識)であり、異塾識、一切種子(いっさいしゅうじ)識とも言われる。』(2頌)
(竹村牧男氏の訳を参照してまとめたもの。)
 自我を立てて、対象を捉える認識は、仮に想定された見方(遍計所執性)であり、これが私達の迷いや苦しみの原因ともなっているのです。それは「識」による転変(縁起)されたものであると言う。このことは唯識を捉える上で外してはならない命題ですから、『唯識三十頌』の冒頭で宣言しているのです。
 転変(縁起)している識とは、1.アーラヤ識、2.マナ識、3.意識と眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の三種類であり、全体をまとめて八識とも言う。アーラヤ識は異熟識、一切種子識とも言われている。

 経験によって新しく生まれた印象や認識(余習)が、アーラヤ識に種子(習気(じっけ))として植え付けられるという。しかも経験したことを忘れてしまっても、深層無意識であるアーラヤ識に、種子として熏習(くんじゅう)(注1)され続け、しかるべき機縁によって、意識と五感による行為として顕在化するのです。さらに、その行為は前からある種子とは異なる種子として、アーラヤ識に瞬時に記録、熏習されていきます。
 このような日常生活の維持の他に、生まれる以前の永劫の昔から、植え付けられてきた種子が熏習され続けていると言うこともあります。それは人間としての生命活動を維持していくためのマナ識とも連動している種子で、現代で言ったら生命保存情報(DNA)であるとも言えます。マナ識については後述します。

無覆(むふく)無記(むき)というはたらき>

 種子として熏習されるということは、アーラヤ識の育む力によって種子が芽を出し成長するということではありません。アーラヤ識自身には種子を育むといった力は無いのですが、全てをそのまま鏡に映し出すようにして、善悪平等に熏習するという働きだけがあります。これが無覆無記というアーラヤ識の素晴らしい働きですが、要するに記録専門の大容量データボックスであると言えます。記録されたデータを変えるのは、意識の表層で営まれる私達の行為であり、その行為によって生まれた新しい種子がアーラヤ識に熏習されていくのです。このような働きによってアーラヤ識の内容が微妙に変化していくのではないかと考えます。こうして、アーラヤ識の質が向上するかどうかは私たちの行為によって決まるというわけです。

 私たちはアーラや識のこのような機能によって、意識的に努力をして善の種子をアーラヤ識に満たしていけば、自らを変化させ向上させることができ、さらには自我の意識を乗り超えて、いつかは悟りの智慧に到達できるというのです。これが唯識思想の素晴らしいところです。

 

 唯識の心所は、遍行(へんぎょう)別境(べつきょう)(ぜん)煩悩(ぼんのう)(ずい)煩悩(ぼんのう)不定(ふじょう)の6つの群に分類されている。(以下唯識の探求 竹内牧男著より引用)
 遍行・・・(しょく)作意(さい)(じゅ)(そう)()(八識のどの識とも相応する)
 別境・・・(よく)(しょう)()(ねん)(じょう)()(特別の対象に起こる)
 善・・・・(しん)(ざん)()無貪(む とん)無瞋(む しん)無癡(むち)(きん)軽安(きょうあん)不放逸(ふ ほういつ)行捨(ぎょうしゃ)不害(ふがい) (将来、楽をもたらすもの)
 煩悩・・・(とん)(しん)()(まん)()悪見(あつけん)(煩悩も随煩悩も将来苦をもたらすもの)
 随煩悩・・忿(ふん)(こん)(ふく)(のう)(しつ)(けん)(おう)(てん)(がい)(きょう)無慚( む ざん)無愧(むき)悼挙(じょうこ)昏沈(こんちん)不信(ふしん)懈怠(けたい)放逸(ほういつ)失念(しつねん)散乱(さんらん)不正( ふ しょう)()
 不定・・・(かい)(みん)(じん)()(どこにも分類できないもの)


<識の転変は激流の如し>

 アーラヤ識を含む八識を(しん)(のう)と言います。心王の他に51の心所(しんじょ)(心的要素)があり、心王に相応して生起しています。さらにそれらを取り囲むようにして()世間(せけん)が広がっております。器世間とは私たちを育んでいる環境世界のことです。

 さて、心王に相応して生起している無数の心所や、さらには器世間まで含めて、それらは全て識と言えますから、識は膨大な数にのぼり、宇宙全体まで広がっていきます。(アーラヤ識縁起図参照)

 このように唯識では心を一つのものとは見ないのです。つまり一つの心が多様に作用するとは見ないで、多数の識が関連し合いながら働いている複合体として見ています。

 繰り返しますが、識とは、アーラヤ識を中心にした心王(八識)と、それぞれの心王に相応して51の心所が生起しています。さらに器世間等々の無数の識が広がっており、これらの無数の識がアーラヤ識を中心にして有機的に関連し合いながら転変しているという真に壮大な世界です。

 このような転変によってアーラヤ識に熏習された種子は、機縁に乗じて意識と五感に顕勢化して新たな行為が生まれます。さらにその行為が瞬時にアーラヤ識に種子として熏習されていくのです。このようなアーラヤ識を中心にした循環運動が識の転変であり、まとめてアーラヤ識縁起と言います。

 識の構造を図に表してみました。しかしこれは、あくまで平面的に広げただけの図ですから、実物とは程遠いものでしょう。つまり言葉や図で表現したとしても、それは実在を指し示す指でしかないのです。その指の先にある真実なるものを、瞑想による無心の目で捉えようとするのが唯識観です。

 「世親」は識の転変の様子を『唯識三十頌』の中で『激流のように生滅流転している。』(4頌)と述べています。心眼を開いて見れば、刹那刹那に生滅を繰り広げている無常の様は、まさに『激流の如し』です。

 中観では縁起しているものは「空」であるということでしたが、唯識では縁起しているものは、これら無数の「識」であり、また一つの「識」の中にも、さらなる無数の「識」が無限に広がっており、激流のごとく転変していると言うのです。まとめると、唯識では転変しているものは「空」ということになります。
 (注1)「熏習」とは、香りが着物にその(かお)りを移すように、善悪などの行為はこれをしばしば行うことによって、習慣として性格を形成すること。




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