とらわれのない心を訓練する
------坐禅の方法------ 

提唱・釈迦牟尼会師家 無得龍廣老師        

坐禅というのは、自分という五体、身心共にこれに親しく目覚めていくということなのです。
 私たちは日常生活の中でいろいろな雑事に追われているので、なかなか自分自身に親しく帰るということはできませんが、こうして皆さんがここに来られて一緒に坐ると、お互いの力が合わさって何とかやれるのです。そうしているうちに、だんだん体に坐るということが親しく備わってくる。
 今までの自分に対する見方ではなく、もっと広い非常にスケールの大きい見方がだんだん分かってくる訳です。最初はなかなか分からなくても、坐禅をやっている内に、本当の意味で自分と言うものが分かってくるのです。それが、自然にご自身に目覚めるようになって参ります。

腰を立てるといことが大事です
  腰骨が曲がっていると坐禅になりません。両膝とお尻の三点が正三角形になるので、その上にご自分の体を真っすぐに立てるということです。丁度地球の引力に対して垂直になるように立つということですね。重りに糸をつけてスーッと引っ張ると、重りは引力に従って下へ降り、糸がズーッと伸びる。ですから、下腹が重りとすれば、体は糸がスーッと伸びるよな感じです。そして、あごをひいて項を伸ばす。それで、胸を楽にして、肩の力を楽にして、要するに臍から上は完全に力を抜くということです。そして下腹に落ち着くようにして坐る。そして手は法界定印になり、自分の右足の上に乗せる。
  目は真っ正面を見ると頭が真っすぐになり、そして1メートル程前方に視線を落とす。畳を見るという意識をもつ必要は一切ありません。

坐禅の呼吸
  最初、私は「換気一息」と言って、一息深呼吸する訳です。口から息を吐きます。口から息を吐くときにおなかを膨らます訳です。
  だいたい呼吸のやり方を三段階に分けています。息を長く吐き切ったところで、口を閉じておなかの力を緩めて体を伸ばすと自然に空気が下腹に入っていきます。それから今度は臍の上からおなかの下の方へ徐々にすぼめる感じで、鼻から息を吐いていきます。最初の深呼吸は全部吐き出すつもりで吐きましたが、今度は7〜8分通り吐いた所で、おなかの力を緩めて下から上へ膨らませていきます。そして、また鼻で息を吸う訳です。息を吐いたらおなかの力を緩めて膨らませていけば、自然におなかの奥のほうへ息が入っていきます。それからもう一度、鼻から息を吐きながらおなかをへこませていきます。これを三回繰り返します。 何のためにやるかというと、腹式呼吸は、肺の働きを助ける横隔膜の呼吸なのです。横隔膜は年を取るにつれて固くなりますが、訓練すればすごく柔らかくなります。従って最初の深呼吸で横隔膜を目覚めさせる訳です。横隔膜の運動を呼び覚ますのです。
  それから、これをもう少し楽にして、自然な状態に少し戻してやって、口を閉じて鼻で呼吸します。これも三回やる訳です。横隔膜の運動を体が覚えるのです。後は、自然な腹式呼吸に合わせて、数を数えます。吐く息の時に“ひとー”と数え、吸う息の時に“つー”と10まで数えます。数を数えるのは、慣れるまでは少し集中しにくいかもしれませんが、やっていると自然に集中力が出てきます。そうすると、普通に物事に集中するより、呼吸に従って集中するほうが何倍にも集中力が増していくのです。
  いろいろな事が浮かんできたら、浮かんできたことは浮かんできたままにしておくのです。そうすれば、浮かんできたことは自然に消えていきます。そうして数を数えることに集中していく、それがいわゆる数息観のやりかたですね。深呼吸、軽い腹式呼吸、自然な呼吸に合わせて数を数える、という三段階に考えてやっています。

坐禅をして何が分かるか
  要するに我々は自分の力で生きていると思っているのですが、坐禅をすると、必ず足が痛くなりますが、これは自分自身が痛くなろうと思ってなるのではないですからね。要するに、この体というのは自分のものではないということです。みんな自分のものだと思っている訳ですね。しかし、長く坐れば足が痛くなる。これは、この身というのは、自分を越えた元からの命が働いているということ、それがよく分かるということです。それは、その人の考え方次第で、みんな自分のものだと思っていたのが、そうではなく、元からの命で自分は生かされている。元からの命で生きている。そこに自分の意志とか関係なしにです。この体は自分の意志で作ったのでなく、元から自分だったのです。そういう命をいただいているのです。坐禅をすると、元からの命が働いているのがよく分かるのです。
  皆さんが坐っていると、次から次へといろんなことが浮かんで来ますね。それも自分の努力で浮かべようと思わなくても浮かんで来ます。坐禅は無念無想になることだから、いろんなことが浮かんでくると、雑念が出て来たから坐禅になっていないと慌てふためく訳です。そうだとすると、無念無想になるのに一番簡単なのは、自殺したらいいということになってしまいんす。死んでしまったら、考えは浮かんで来ませんから。
  人間というのは、生きている限り自分の思いに関係なく次から次へと浮かんできます。その心の働きも自分のものではなく、自分を越えた命なのです。本当の自分というのは自分の命で生かされているということです。心もそうです。無念無想というのは、何も考えないということでなく、とらわれないということです。ですから、いろんなことが浮かんできても、浮かんできたままにして、それにくっつかない。
  日常生活においては、いろんなことに気が向いているから、頭の中にいろんなことが浮かんでくるということをあまり気にしない訳です。外に向かっている気持ちが下がれば、自分の内に働いている気持ちが出て来ます。皆さんが坐ると、余計いろんなことが浮かんでくるのです。それは間違った坐禅ではないのです。生きている証拠なんですから。それにとらわれないということが大事なのです。それが無念無想なのです。
  浮かんできたら浮かんできたまんまにしておけば、自然に消えていくのです。これが本当の意味で心をコントロールする方法なのです。心というものはコントロールすることは出来ない。コントロールできなかったら、できないままにしてほったらかして置いたらいいのです。ほったらかしておくと、浮かんできたことは自然に消えていく。努力する必要はないのです。
  わたしたちは、いろんな経験が蓄積されています。時には醜い心も出てきます。またすがすがしい善良な気持ちも沸いてくる訳です。人間はどちらも必要なのです。片方だけでは物の善悪が判断できないのです。我々のいい考えも悪い考えも嫌うものではないのです。いいものにあまり執着しても良くないです。
  善悪というものは全部あって初めて人間はまっとうな生き方ができるのです。いろんな考えが出てもとらわれないで、ご自身がそこから正しい道を選択していくことが大切なのです。とらわれない気持ちというのを訓練する、最も合理的な方法が坐禅なのです。心の取り扱い方を坐禅で身につけると、実社会でいろんなことがあってもそれから離れることができるのです。離れることができてら、自分の必要なものをつかむことができるのです。
  その離れることを坐禅によって是非身につけてもらいたいと思います。そうやっていくと坐禅というものが、本当の意味で自分を生かす素晴らしい知恵であるということが、だんだん分かってくると思います。

平成12年9月31日



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