宗教の必要性

講話 桐 山 紘 一


長野坐禅会を始めて早十年になります。
  坐禅が身についてきた方もいらっしゃいますが、残念ながら1〜2回だけ来て、その後見えなくなってしまう方が大勢いらっしゃって残念に思います。本当の仏教の良さをお知らせするにはどうしたら良いか、難しい問題です。
 また、世間一般の方は概して宗教に無関心か、又は無関心を装っているのでしょうか、宗教の話をすると嫌悪感を示したり拒否したりする傾向が強いように思います。
 宗教なんて年とってからやるものだ、くらいに考えている方もいます。いったい日本人の宗教に対する認識はどのようになっているのでしょうか。それを探ってみることは、私たちの坐禅会のあり方や展望を明らかにする意味で大切だと思いますので、しばらく考えてみたいと思います。

無宗教の日本人
  日本では大体90%位の人が無宗教だそうです。ところが西ドイツでは90%位の人が、カトリックとかプロテスタントなどの宗教に所属していて、日曜日には教会に行って聖書を読んで礼拝したり、牧師さんの説教を聞いたりする敬虔なキリスト教徒です。イギリスでも勿論ですが、少ないフランスでも60%位の人は何らかの宗教に所属しているそうです。
  日本人はどうしてこのように宗教に無関心なのでしょうか。日本人の無宗教ぶりは、世界に例を見ないそうですが、それでもやっていかれる日本人とは、どういう文化や人生観をもっているのでしょうか。
  実は、週間長野新聞に「宗教の必要性について」と書いた坐禅会募集案内を掲載していただきました。その数日後、新聞広告に「人はなぜ宗教を必要とするか」(阿満利麿著)という本の紹介が載っていたのです。私のためにこの本が出版されたのではないかと思ったくらいで、つい昨日、買って来たのがこの本です。
  ついでに市立図書館へ行って、この本の姉妹編である「日本人はなぜ無宗教か」という本を借りて来ました。早速読んでみましたが、私が今まで疑問に思っていたことが氷解し、目の覚めるような思いがしました。図書館でちょっと読み出したら止まらなくなって、一時間半程読んでいたのです。慌てて駐車場へ行ったら、30分オーバーの駐車違反で、1万円取られてしまいましたが・・・それは余談ですが、ぜひ皆さんも読んでみてください。この2冊の本を読んだ感想を元に話してみたいと思います。

いかがわしい宗教
  宗教を何か、いかがわしいもの、怖いもの、というイメージが強のではないでしょうか。金でも巻き上げられるのではないかとか、霊が乗り移るとか、そのようなのが宗教だという感覚をもっている人が多いようです。
  世間の大部分の人は、「宗教の正しいあり方とは何か、どんな宗教があるか」ということがほとんど分かっていないのではないでしょうか。それは宗教をタブー視して、語ることさえ許されないと言う、間違った教育のあり方にも大いに問題がありますが・・・・・それは別の機会に明らかにしたいと思います・・・。
  確かに世の中には、いかがわしい宗教が沢山あります。わらをもつかむ思いで相談に行くと、「先祖の祟りがある。」などと言って人の弱みに付け込む。
  私の実家の近くに、昔、共同墓地がありました。行き倒れの人等を埋める所があるのです。あるとき、本家のおじさんが病気になって、おひめ様という人に相談したら、「東の方に高台があって、昔、行き倒れの人を埋めた。その供養を良くしなかったから、祟って病気になった。」そういうことを言われて、びっくり仰天しました。しかしそんなことは誰かに聞いたりして調べれば分かることなのですが、その供養のために○万円で祈祷をする。改善しなければ、まだ祈りがたりない。また○万円と言われて、お金を沢山献上することになる。信者を大量に集め、いつの間にか殿堂が建つようになるというわけです。
  また、マスメディアが一部の宗教家や法人の悪事を必要以上に取り上げて騒ぐので、総ての宗教がいかがわしいと錯覚する人が多くなっているのではないでしょうか。

自然宗教としての無宗教
 日本人の無宗教というのは、ヨーロッパのニヒリズムのように、全く宗教はいらないという無宗教とは違って、日本人特有の無宗教だと言うのです。
  考えてみますと、お盆には迎え火を焚いて、提灯を飾って先祖を迎え、3日間はその前で食事をして先祖と一緒に過ごす。正月には松飾りをして精進潔斎をし、年神様を迎えて朝夕お養いということをして過ごす。非科学的なことですが営々と何百年も続いている。お盆には多くの人々が、都会から一斉に故郷に帰って祖先の霊を迎えてお盆の行事をする。自分が死ぬと家や地域の先祖として祭られると漫然と思っている。このようなのが日本人の宗教心だというのです。そういうのを自然宗教と、阿満利麿氏は言っています。日本人の無宗教とは、宗教心が無いと言うのではなく、特定の宗教を信じない自然宗教ではないかというのです。
  人は亡くなると、必ず家や村の先祖として祭られる。お盆にもここに帰って来られる。従って死ぬことに対してもあまり不安ではない。
  私は子供の頃、お盆には迎え火を焚くと本当に爺ちゃん婆ちゃんが来て、草葉の陰で私達を見ていると信じて疑いませんでした。だんだん成長するに従って馬鹿馬鹿しいことやっていると思うようになりました。科学的な教育を受けて、社会の矛盾にもまれていくと、自分自身で自分の生き方を見つけなくてはならないことに、はっきり気がつきました。自分とは何か、本当の生き方とは何か、人間は死ぬということはどういうことなのか、死んでどうなるのか。どうせ死ぬなら今こんなに真剣にやることはない。生きている意味がないのではないか。私はそういう色々な疑問や悩みをもちました。
  哲学書をあさったり、無教会主義の本を読んだり、バイブルを読んで教会へ行ってみたり、正法眼蔵を読んだり、色々のことをやって最終的にたどり着いたのがこの禅の宗教です。禅の宗教ほど科学的な宗教はないと私は思っています。禅の科学性ということは大きな問題ですが、また別の機会に考えてみたいと思います。・・・・・・・。

宗教教育の必要性
  現代の人達は、村が崩壊して安定した共同体の中に住めなくなっているのではないでしょうか。核家族化が進んで家庭には仏壇や神棚は無い、お盆の行事も形だけで、お盆に故郷へ帰ることはありますが、先祖を祭るとか、自分がやがて先祖になるとか、家としての祖霊信仰(自然宗教)が全く薄れて来ています。その結果が、道徳観念の不足であるとか、心を病んでいるとか、不登校の子供が沢山出るとか、社会の不安定要素が感じやすい子供達に表れているように思います。
  地域共同体でお互いに支え合って、しきたりを守っていれば良いという安心感を失って、現代人は何か不透明な不安感に襲われているように見えます。裏を返せば、皆人間としての自立を要求されているというのが現代人だとも言えます。
  それでは何か宗教をやりたいが、宗教といっても何となく信用できない。その上、誰も宗教について教えてくれないので、現代の日本人は迷える羊のようです。そして何かに憑かれたように忙しがって、馬車馬のごとく走り回り、心身の柔軟性を失っている人を沢山見かけるよになりました。
  日本の学校教育にも大きな誤りがあると思います。戦後の学校教育では、特定の宗教のみを教えてはならないという教育基本法の意味を誤解して、教育の中で宗教を語ることさえ許されないような風潮が生まれ、宗教音痴の大量出現という様相を出現させてしまいました。
  日本でも宗教学の見地から、いろいろの宗教について教え、自分で宗教を選んでいけるような幅広い素養を身につけていく教育が必要です。宗教的な情操教育と宗教の知識教育を組織的に行うことですが、今の日本の教育界の状況では大変難しいと思います。21世紀の大きな課題となることでしょう。

ちゃんとやっているから宗教は必要ないと言う人
  宗教に心が向かないもう一つ原因として、ある人がこんなことを言いました。「私はちゃんとやっているから、まだ宗教は必要ない。」と言うのです。
  世の中にはそういう人が多いのではないでしょうか。宗教を必要とする人は不幸な人、または弱い人。自分で自分の生活を組み立てていかれない人々が宗教をやるのではないか。日常が非常に安定し、幸せそのもので宗教の必要性を感じないのです。
  その安定した日常性の中心は常識というものですが、それは日常性を維持していく最も大事なものです。常識がないと、自分の生活は守れない。従って常識のない人に宗教は必要だが、常識のある人は宗教はいらないと言うことになります。
  私たちの日常生活は、本当に常識だけで生きられるでしょうか。例えば、連れ合いが癌になった途端に・・・・・・これは常識では考えられません。自分の子供が亡くなったらどうでしょうか。自分が思わぬ災難に遭ったとき、そして必ず自分の命が無くなるということも勿論です。さらに私が生きていることを深く見つめてみると、生きていること自体が、とても人間の常識では考えられない無限の美しい世界、奇跡の世界であるということです。
  大体常識の世界では、自分の生活をきちんと守って、絶対死なないとさえ思っている位です。ところが人間は死亡率100%です。
  自分はやがて死ぬことは分かっている、そういうことは50歳ぐらいになってからやれば良いという。でも50歳60歳になって、いよいよ自分が死ぬという段になって、初めて慌てふためく。自分の人生、何だったかと思いながら無念の思いで亡くなっていく。そういう人々が多いのではないでしょうか。人間の命のはかなさを見つめ、人間の生きるということの本当の素晴らしさを、感性の鋭い若い時から求めていくと、人生はもっともっと豊かなものになっていくはずです。そういう意味で、宗教は人間にとって何よりも大切なものですから、みんなで力を合わせて、敢えてこのような坐禅会をやているわけです。
  次に、最近の新興宗教のように大きな教団になっていくと、教団を維持するためにかなりの問題があります。お金をたくさん出すとかいうこともあるでしょう。今、あのような大掛かりな教団というのは、あまり現代的ではないのではないでしょうか。
  環境問題にしても、行政が行うのではなく、住民の5人10人と集まって自分達の問題として検討する。団地開発をすれば本当にそれが良いのかどうか、そこの住民一人一人が立ち上がって検討する。その声を取り入れて行政が本質を考え、官民一体となって進めていくという時代です。このように個人の自立が要求され、人間中心の社会になりつつある時代ですから、宗教の負う所は甚だ大きいと思います。
  宗教の目的は、自分を含めた一切のものや、真実の姿をありのままに捉える力を得ることにあります。すなわち、一人一人が人間として自立し、矛盾の多い現実生活を改善しながら逞しく生きぬくことにあります。

人間に死の不安が無くならない限り、必ずいつかは宗教の世界を思い見るでしょう。
・・・・・・長島亀之助

今日初めていらした方、初めは足が痛くて大変かも知れませんが、慣れてくると坐禅の良さが分かってきます。坐禅をした後は、気持ちが晴れ晴れとして、スカッとします。気持ちがおおらかになって、血行も良くなります。初めはやれやれという気持ちがないわけではないですが、慣れてくれば坐禅した後は非常に爽快になります。自分のとらわれが少しずつ取れていくからでしょう。いつも真っさらな自己に立ちかえっていくのが坐禅ですから。これを真面目に信じて行えば、必ず本当の自分の人生が見えてくると思います。
  単なる日常的自己を越えた本来の自己に目覚め、本当の宗教のありかたを世に問うていくことが、私どもの使命ではないでしょうか。

平成12年4月2日




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