川柳の楽しみ


講話 桐 山 紘 一

「無情迅速なり。生死大事なり。且く存命の際だ業を修し学を好まば、只仏道を行じ学すべきなり。文筆詩歌等其の詮なき事ならば捨つべき道理なり。」これは正法眼蔵随聞記の中にある道元禅師のお言葉です。
 川柳などを楽しんでいては、成道の妨げになるとお叱りいただきそうです。しかしながら道元禅師は若い頃から漢詩や和歌に精通して居られます。しかも正法眼蔵は単なる言葉の理論ではなく、壮大なポエムといっても良いでしょう。ポエムを解する人は仏道に入り易いとも言われます。
 私が川柳に魅力を感ずるようになったのは、季語や切れ字に関係なく、自由奔放に人間の生きる姿を語ることができるということです。自己の失敗や苦しみや喜びを、日常の些細な出来事の中に求め、作句という修道を通して厳しく自己を見つめ、虚構を穿つ真相に触れることができるということです。
 また反対に、坐禅をしていくと物事の真相がよく見えてきて、新しい発見が次々に出てくるので、何らかの形に表現して、多くの人の共感を得たいと思うようになります。それが芸術であったり、思想であったり、さらに主体的な日常の行動であったりしますが、それが禅を生きることにほかなりません。
 私は、坐禅をおろそかにすると、口をついて出てくる筈の川柳が、さっぱり出てこなくなることがありますが、それは、坐禅が表現や生きることの原点になっているということでしょう。従って私の川柳は坐禅をすることによって、生まれてきたといっても良いかもしれません。
 まず私の最近の駄作を紹介して、禅を生きる川柳のありかたを探っていきたいと思います。


 プロローグ

坐禅堂行く手を示すほの明かり
煙突から解き放たれて発つ煙
山茶花の厳冬にこそ凛と咲く
ままならぬ出るものは出る生欠伸
包丁の切れ味冴える主婦の朝
わだかまりけっ飛ばしてる空の蒼
一瞬の闇を切り裂く呱々の声
栓抜けぬ友手作りの赤ワイン
失敗を丸出しにするこの若さ
朝顔の花すっきりと頑張るか


 農業

すり減った鍬に滲んだ母の汗
ちょっと畑へ行けば帰らぬ人となる
手作りの野菜ゆっくりかみしめる
不況風大根までも先が割れ
できの悪い大根いとし妻と漬け
手作りのぬくもりを売る道の駅
除草剤撒いて失う美味い米
減反の田んぼいっぱい蕎麦の花
成り年の重みに耐えて柿実る
播かぬ種生えぬ播いても生えぬ種
老いてなお明日に託して苗木植え


 無情

死んでまで三途の川で迷うとは
生きること死ぬことさえもままならぬ
お迎えがまだ来ないかと泣く老女
泣いても笑っても来るものは来る蒼い空
いいじゃないか生きてるだけでまる儲け
息してる当たり前です奇跡です
散るなんて知らぬが仏花盛り
淋しくて声を限りのキリギリス


 生きる

ポケットの中で拳を握りしめ
子は親の鏡ですよと子に言われ
見送りの母の涙に走り去る
回覧を回して元気確かめる
踊らされていると思ってなお踊る
心の影も映りそうですレントゲン
泣くに泣けぬカラスと一緒にカーカーカー
足音がとんがっている妻の乱
引っ込みがつかなくなった星条旗
うっかりミスと笑って済ます狡い人
なるほどと知ったか振りの返事する
売り声の元気も買った朝の市
蛍舞う里の子供ら美しく
一番を譲って二番の心地よさ


 エピローグ

六十路行く命さながら鯉のぼり
永遠の命を仰ぐ茜雲
一芸の磨き抜かれた京の舞
履き物を揃え動かす全世界
大家族いつも明るい母がいた
いい人と言われた母は掃除好き
いい人と言われたくなし言われたし
即今の自己に切り込む明日の夢
歩み出す過去と未来が握手して



 川柳の味わい方
 万葉の時代から和歌は朗詠して味わうものとして発展してきました。連歌から分派発展した川柳も、やはり声を出し、5・7・5にまとめられた心地よい言葉のリズムを感じながら読むことが大切です。また作句する場合も声に出して何回も試行錯誤の読みを進めることによって、躍動感のある川柳が生まれてくると思います。
 禅味460号に「素読・読誦のすすめ」と題して書かせていただきましたが、「体解としての素読」(朗詠も含めて)は、言葉の深遠な意味に、心身を通して経験的に迫る素晴らしい方法であることを再度強調したいと思います。それが「禅を生きる川柳」への最捷径というものでしょう。
 おしまいに、「禅を生きる」ということを、綴り方教育の芦田恵之介の言葉を借りしてまとめたいと思います。
「宇宙の万象が我に映ずるところを子細に観察研究し、吾人が天地自然の運行と軸を一にする大道を歩むことを覚得せば、教育の基礎は全くここに築き上げられるのである。この第一義が確立して、はじめて万人が各その事情・境遇に応ずる種々の変化を遂げる。即ち万人悉く差別あって、而も平等のひびきあるようになる」云々。



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