禅と作曲C即今の自己を見つめる


桐 山 紘 一

 多くの友人は、私の退職後の生活を見て、「作曲などされて悠々自適の生活でいいですね」と、羨望とも嘲笑ともつかぬ言葉をかけてくれます。一般的に作曲などということは、生活に関わりのない遊びとしてしか捉えられていないようです。まして退職後というと、生活には心配ない、隠遁生活の戯れ事のように見えることでしょう。

 しかし作曲ということが私に開かれた生涯に渡る修養の道であることは、前稿までに述べてきた通りです。そして禅と出会うことによって、私の作曲活動がより充実してきているという経験を元にして、禅の世界把握と作曲という行為の共通点を明らかにしてみたいと思います。

 禅では「一挙手一投足そのものに成りきる」とか「成り潰れる」とか言われます。それは豊かな音楽表現そのものでもあるわけですが、しかしそれらの言葉だけを聞いて活動しようとしても、物事のとらわれをはずれ、純粋にそのもの成りきって行動することは至難のことでしょう。

 そこで坐禅が登場する訳ですが、坐禅はとらわれからはずれ、そのものに成りきるための効果的な修練ともいえますから、坐禅を粘り強く続けることによって、とらわれをはずれた生活や仕事・作曲等々に打ち込んでいくことの素晴らしさを、自らの体験を通して発見することができると思います。それが在家禅の醍醐味というものでしょう。

 一つの例として私のささやかな体験を記してみたいと思います。

 それは三十年ほど前のことです。作曲は勿論、仕事である教育にも失望し、全てに渡って低迷しておりました。そんな時に坐禅に出会い、毎日坐禅をしながら何とか行き詰まりを打開しようと焦っていました。

 ある時、学芸大学の教育研修のために車を運転して上京した時のことです。長野の自宅を正午に出発して、どんなに遅くても夕刻までには東京都小金井市の宿舎に到着する予定でした。当時、高速道路中央道は東京から大月までしか開通しておりませんでしたから、そこまでは一般国道を利用します。夏の暑い盛りで当然ラッシュが予想され、時間には余裕をもって出発したことは言うまでもありません。案の定、松本から塩尻にかけてのラッシュは今だ嘗て経験したことの無いものでした。

 諏訪のラッシュはそれにも増して大変なもので、抜け道を捜して、山梨との県境まで来た時は、とっぷり日が暮れてしまうではありませんか。三分の一の行程に七時間以上を要してしまったのです。

 暗澹たる思いで甲府にさしかかりましたが、「何だこれは!ふざけるんじゃない!」と思わず叫んだ程で、市街に入るまでの数キロに2時間を要し、エアコンも付いていないポンコツ軽四輪の中で汗だくになって、体力も限界。へとへとになって大月インター手前まで来たのですが、いつまで経っても前の車は動かない。既に夜中の0時。自宅を出て十二時間経過。「どうしたことだ、早く東京へ着かなければ」という思いだけに凝り固まって、パニック状態に陥ってしまいました。

 その時です、フッとある思いがよぎりました。いったい何でそんなにいらいらして焦っているのか?・・・・・と。まてよ、東京へ何時着いても良いではないか、研修に遅れて迷惑をかけたら、原因と結果を説明し、心から謝れば疚しいところは一つもない。同情されることはあっても、攻められることは全くないのではないか。

 どんなに遅れても、目の前の事実に従って、今ここでひたすら運転していることが私の全てであり、それを続けていれば何時か間違いなく東京へ着く。しかも運転席にただ坐って運転し続けている、その状態が東京へ着いたことと全く一つの事である・・・と、はっきり確信できたのです。そうしたら焦りに焦っていたパニック状態の気持ちが一遍に吹き飛んでしまい、奈落の底から救われたような不思議な喜びさえ感じられ、車の中で大笑いをしている私でした。

 大月の高速道路入り口にたどり着いた時は午前一時を回っていましたが、道路沿いの照明と反射盤の異様なまでの美しい輝きは、今でも脳裏にやきついております。東京へ到着したのは午前三時頃でしたが、爽やかな満足感に満たされておりました。長野から東京まで何と十五時間近くかかったことになります。もしパニック状態のままであったなら、疲労困憊して次の日の研修会にはとても参加できなかったに違いありません。

 長々と事例を書いてきましたが、このような経験が坐禅修行と軸を同じにしていることを強調しておきたいと思います。坐禅をしていることがこのような捉え方をする契機になっていると思うからです。つまり坐禅の数息観は、車を運転し続けること。数を数える事を忘れてしまい妄想に陥っている状態が、早く東京へ行かなければという、とらわれと焦り。ハット気が付いて数を数えることに戻ることが、今ここで運転することが私の全てであると我に返ったことと一致します。また、公案の拈提も只管打坐もこれと同じく、ありのままの事実に着目していくための修練ではないでしょうか。

 日常のささやかな経験でしたが、即今の事実に沿って、そのものに成りきっていく事の素晴らしさと大切さ、そして難しさを身以て気づかされました。道元禅師が強調している「修証一如」。また臨済禅師の「途中に在って家舎を離れず。家舎を離れて途中に在らず云々」「因果一如 」「即今の自己」等々の言葉がいちいち納得せられ、自己の生活全てに渡って再点検が始まりました。

 さて作曲も全くこれと同じく、音そのものの流れや広がり・調和・自然美に成りきっていくということに尽きます。突然歌い出したり、ピアノで演奏してみたり、家中をうろうろしているので、妻も腫れ物にさわるようにしているとのことです。

 作曲の動機は色々ありますが、詩を読んだ感動経験であったり、依頼されたものであったり、何となく作ったメロディーが気に入って、いつの間にか我を忘れて音符に書留めていたりです。また、一つのテーマをつくるのに試行錯誤の連続で、寝ても覚めても頭の中に音が鳴り響き、夜中に跳び起きることも屡々です。いったい何百通りのメロディーが響き渡ることでしょう。そうして自分でも感動する程のメロディーと構成ができた時は、天にも昇る程の喜びに包まれます。またその反対に、何十時間かけても見通しが立たず、納得したものができない時は、自分の無能を嘆き、落ち込んで放り出してしまうこともありますが、思い直してまたゴソゴソ始まると言った具合です。

 そこで大切なことは、このままひたすら続けていけば、いつか必ず最も妥当な美しいものが現れるという信念のようなものがありますが、それは全く禅の公案拈提によって培われたものかもしれません。出来上がった曲は山あり谷あり、喜びと苦しみのラッシュをのろのろ走り続けるドライブのようなものです。自作品が演奏されて「してやったり」と自画自賛しているときの喜びは至福の極みです。踏み出した一歩でとどく江戸までも。



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