結果主義とプロセス主義


講話 桐 山 紘 一

私、趣味といいますか、下手な横好きで焼き物を少々やるのです。粘土をこねて形成し、釉薬をかけて焼き、茶碗などを造るのです。
 友達と一緒にやる時がありますが、見ていると粘土で形成するのに二つのやり方があるようです。
 一つは、「茶碗を造ろう」と、物や形を決めて造り出します。ところが自分が思っているような茶碗ができない。時間をかけてある程度まで造るのですが、ついに自分の思うような形にできなくて、「だめだなあ!」と言って潰してしまい、そしてまた作り直します。ところがやっぱりだめで潰してしまう。そういうことを繰り返しながら、一時間やっても結局一つも造れないような人がいます。
 もう一つのパターンは、とにかく最初に茶碗を造ろうと決めて造り始めます。どんどん造っていって「なんだかちょっとおかしいなあ。」と言いながら、「小さかったな、あっ!お猪口みたいになった、茶碗じゃなくてお猪口にしよう。」・・・・こういう造り方の人がいます。前者は非常に几帳面で融通がきかない。後者は、いい加減と言えばいい加減。さて皆さんはどちらのいき方が良いと思いますか。
 今は両極端で二つのパターンを示しましたが、私としては、どちらも良いのですけれどど、両方が自由に使えるとなお良いと思います。そうすると人間、無限に成長していくのではないでしょうか。最初のパターンだといつまで経っても成長しないと言うことが考えられます。思うようにいかなくて、ついにヒステリーを起こしたり、自己嫌悪に陥ったりします。後者は、どちらかというと、ずぼらで呑気、適当で曖昧。でも何となく前進して行くようで、新しい自分をいつも発見していくタイプです。いつもずぼらではいけないのですが、この二つの生き方を自由自在にコントロールしながら生きていくのが良いと思うのです。
 坐禅をやっていくと、そういうことがよく見えてくるように思います。どちらかと言うと、私たちは最初の方になり易い。粘土形成していて自分の思うようにいかない。「うまくいかない、やめた!粘土なんて面倒だ、おもしろくないものだ」・・・・自分の観念に合わないものは受け入れないので、どうしてもこのようになり易い。こういうのを結果を中心にしているから“結果主義”と言います。つまりやる前から観念として出来上がってしまっている。したがって、自分の観念がじゃまして目前の事実に対応できず、形成が自由にいかなくなり、揚げ句はヒステリーを起こして不安定になったり、拒否・排除してしまうのです。 
 後の方はプロセスを大事にするから“プロセス主義”(過程主義)と言います。どちらが良いかということは、先程申し上げたように両方必要なのですが。この二つをうまくコントロールしながら自由自在に生きていくのが現実的な良い生き方ではないかと思います。
 結果主義の人は、自分の目標が達成できないとヒステリーを起こす。ところがプロセス主義の人は、目標を設定するんですが、途中で目標を変更してしまう場合がある。色々な新しい条件が発生し、自分の予定したこととは違うことが起こってくる、そこで新しいことを付け加えて、思いもよらない新しいものを作り出していく、今の社会はどちらちかというと、こういうプロセス主義の生き方が要求されるのではないでしょうか。
 新しい製品を開発する。とにかく作ってみたらこういう形が良いということが分かった。また売ってみたら良く売れた。どんどん新しい情報を付け加えながら試行錯誤して新しい製品を作っていくというわけです。
 結果主義は頭が固いやり方で最近の会社ではあまり歓迎されない・・・・・・・・・ 昔はこういうのが良かったのでしょう。「皆、従え!」と言うような中央集権的・管理主義的やり方です。でも結果主義はすべていけないという訳でもありません。
 どちらかと言えば現代社会は大きな組織で動いているから、個人が埋没して結果主義人間になりやすい。また結果主義の方が安心していられると言うこともあります。なぜかと言うと、いつも決められた通りにやっていれば、危険はないし、うじうじと悩む必要はないからです。(うまくできるかどうかは別問題ですが)
 ところがどっちへ転ぶか分からないのがプロセス主義。あっちへ行くかこっちへ行くか良く分からない。売れるか売れないか分からない。やってみなくては分からないという面があります。
 さて、世の中やってみなくては、分からないことが殆どです。どんなに綿密に計画しても、計画通りにいかないことの方が当たり前であると言えます。計画通りにいったことはむしろ不自然で、どこか無理があります。なぜかというと真理はそれこそ無限で人知には及びもつかないことですから。すべてを人知で決めてかかるという結果主義だけでは、失敗するのは目に見えているからです。したがってどちらかと言えば、プロセス主義の方を中心に考えるようにしてちょうど良いのではないかと思います。
 月に向けてロケットを発射。しかしスーッとコースを外れてしまった、もうやり直し、墜落。こういうのではないのです。ドーンと上がって行ったが外れてしまった。あっちが目標だなと、誘導装置を働かせてキュッと曲がって正しい方向へ飛んで行く。絶えず新しい目標に向かってクニャクニャコースでも行ってしまうのがプロセス主義です。
 どうしてプロセス主義が良いかということを、もう一つ例を上げて考えてみたいと思います。みつはしちかこさんの詩を紹介します。「お母さん忙しさを追いかけないで、時に振り回されないで・・・・」つまり結果主義にならないように。あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃと頭の中にいつも観念があるものですから、現実の子供のところに目がいかない状況をうたっています。

"お母さん 忙しさを追いかけないで 
  時に振り回されないで
  赤ちゃんは すぐに赤ちゃんでなくなるから 
  だから今ここにいて あなたのかわいい赤ちゃんを 
  たっぷり見つめて たっぷり抱いて 
  赤ちゃんの心の始まりに 
  お母さんの優しいほほ笑みの花が
  笑っていますように”

子供を置きっ放しにしないで、今日〇〇をしなくちゃとか、頭の中にそんなことを置かないで、子供がここにいて私がここにいるその関係の所へ、お母さんがたっぷり自分の心を開いて、子供と一緒にいる・・・・・・・。それを今やらないといけない、後でやろうと思っても取り返しがつかないというのです。
 それをやらないから、今の子供達はお母さんの愛情をたっぷり受けて育っていない場合が多く。大きくなって何となく不安定な人になってしまう。お母さんの結果主義が、子供の結果主義を招いて、事実に適応できない情緒障害とか不登校等を抱えてしまっているのではないでしょうか。
 坐禅をやっていくと、そういう生き方が大事だということが、だんだん分かってくると思います。そうでないと、生きている喜びが味わえない。例えば、今ここでお茶を飲んでいるのに、お茶のことを忘れて別のことをやっている、別のことを考えているのではお茶のおいしさは味わえない。
 茶道は、お茶を飲む時はお茶に成り切って、こうやってお茶を飲む訳ですね。(お茶を飲む動作をする)それ以外のことは考えない。お茶を飲む時はお茶に成り切り、最も合理的な方法でお茶を楽しんで飲む。お茶を飲む時、テレビなどを見ることは許されないでしょう。それを徹底的に追及したのが茶道ですね。即今の自己を大切にする禅の生き方です。
 もちろんスポーツでも言えます。野球の王選手はバッターボックスに入った時の球への集中力は並外れていたそうです。野球道に徹したと言うか、禅の生き方ではないでしょうか。頭の中では、「ホームランを打って今年もホームラ王になるんた」というようなことを考えているのではなく、ボールが目前にくる今の瞬間に、感性と洞察力を働かせていかに集中していくか、それだけだと思います。野球はそれほど単純ではないかも知れませんが、結果主義だけで打っていくと結果が良くならない。その瞬間瞬間の自己に、いかに徹していくかというのが野球道というものではないでしょうか。
 またやっかいなことに、人間はどうしても欲深でしょう。名誉とか儲けたいとか金を欲しいとか、それが生きる中心になっていくと、それにがんじがらめになってしまい、プロセス主義から遠く離れていくようになります。特に40・50才位になると、名誉とか出世とかが頭の中にくっついてきます。仲間が課長になって、部長になって俺は惨めだとかイライラしてくると、卑屈になって目の前の真実や美しさを味わうことができなくなる。(私自身の体験から申し上げているわけですが)これは危険です。そういう時こそ人生の本当の意味に立ち返るべく、修練をする必要があります。
 台湾の話かな、タイの話かな?、台湾出身の“朱”さんがいるから思い出してお話しますが、“ひろさちや”さんという仏教学者がいます。本屋に行って仏教関係の書棚を見ると、“ひろさちや”さんの本が必ず目につく位、沢山面白い本を書いている方です。その人の書いた本に、こんな話がありました。・・・・・・(今、私の話方はプロセス主義です。そんな話、今する予定ではなかったのですが。)ひろさちやさんがある港町に行ったのだそうです。広場で、人々が色々な物を売っている。その中に、大の男が二人座り込んで、大きい魚を一匹置いているのに出会った。
 ひろさちやさんがそこへ行って「あなた方二人で何やっているのか」と聞いたら、「何やっているって見れば分かるでしょう、魚を売っている。」と言うのだそうです。「何んで一匹ばかり売っているのか」と聞いたら。「何んで一匹じゃいけないんだ。」と、けげんな顔をしている。日本人の感覚だと「何で一匹か」、結果主義からいくと一匹ばかり売っても儲からない。
 そこで、「一匹が売れてしまったらどうするんだ」と聞いたら、その人曰く「一匹売れればそれで良いではないか、一匹売れて必要ならまた捕りに行けばよい、海には魚はいくらでも泳いでいる」、こう言ったそうです。ひろさちやさんはその時非常に感動したそうです。一匹だけ捕ってきて売って、売れたらもう一匹捕ってくれば良い。なんと大らかな生き方でしょう。
 またこんな話もありました。日本の近代漁法を開発途上国に広めるため、日本人が出掛けて行った。現地の人に説明して、「このような網や船を使って、このようにすれば一度に沢山の魚を、簡単に捕ることができると、得々と説明した。そしたら現地の人曰く「一度に簡単に沢山捕る方法は分かったが、そんなに沢山捕ってどうするんだ」、「沢山捕れば儲かるだろう」、「儲かってどうするんだ」、「楽ができる」、「楽してどうするんだ」、「楽すればあくせく働かなくて、釣でもして楽しんで暮らすことができる」、そしたら現地の人が腹を抱えて笑い出した。なぜでしょう?
 日本人は一生懸命苦労して魚を沢山捕って、釣をするためにやっているのか、我々は釣をして楽しんで、尚かつ魚を売っ良い生活をしているんだ、ということです。結果主義に陥っている日本人を笑っているようです。
 いつも自分の欲望を頭の中へ描くから欲望に対応して、妄想がむらむらと生まれてきて結果主義になってしまう。欲望・妄想に振り回されて、目の前のお茶を飲む楽しみを忘れてしまう。本当に人間の生きる幸せとは何でしょうか。毎日一匹釣っていればそれで良いということでもないのですが、これは人間一生の問題です。
 もちろん日本のこういう社会の中に暮らすからには、この社会の風潮である結果主義も理解して、結果主義を通してプロセス主義を理解し、人間らしい最もすばらしい生き方を探究していかなくてはいけない。それが本当のプロセス主義だと思います。坐禅をやりながら、自分の与えられた人生を、生き生きと楽しんで、本当の生きる喜びを自分のものにして一生を終わりたいものだと思います。
 めまぐるしく変転する社会では自己を見失わないようにするのが精一杯です。坐禅をしていくと、結果主義に陥ることを何とか免れると言うか、坐禅はそういう点で大変に有効な素晴らしいものだと思いますので、皆さんと坐禅の良さを共に味わえたら良いと思って、坐禅会を続けています。

 禅は徹頭徹尾プロセス主義だとも言えます!



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