根本知と分別知


講話 桐 山 紘 一

○はじめに
 この「根本知と分別知」ですが、これは岡田利次郎先生(注1)が述べられた概念です。物事を事実に即して動きながら捉える大変優れた解り易い概念だと思います。人間は勿論、全ての実在は根本知と分別知という二つの知恵の働きであること。それはどのようなもので、どのようにしてできたか、そのポイントを紹介させていただきながら、慎重に且つ経験的に私の理解したところを述べさせていただきたいと思います。

○赤子の様な心でなければ天国へ入ることはできない
 これは聖書にあるイエスキリストの言葉です。仏教では無心とか、諸法は無我等と言われていることです。 私の長女が結婚をして子供が生まれました。私もついにお爺ちゃんと呼ばれることになってしまいました。娘は非常に我が強く、20歳頃は気に入らなことがあると、フンと横を向いて一言もしゃべってくれないとか、仕事に就いたのは良いのですが殆ど家へは帰って来ないとか、親の言うことは聞かないとか、よく言えば芯が強い、しっかりしているということでしょうが、何とも取り付く島がない状態でした。その娘が結婚して赤ん坊が生まれた途端に、慎ましく優しく、表情も豊かになり、人格が一変したのです。それは何故かというと、やはり子供を授かったということです。つぶらな瞳で見つめている無心な赤子。ただ泣いて母乳を飲むだけ。何の計画性も損得もありません。ひたすら微笑んでいる赤子を見たとき、娘の中にある無心な気持ち、元々もっている赤子のような心が、パット開かれたのではないでしょうか。人間というのは子供が産まれて成長するのだと、つくづく思いました。 私自身もお爺ちゃんになったのですが、職場で鬼のような顔をし指図したり根回しをしたり。損得勘定の悪戦苦闘です。そういう娑婆の中に暮らしていて、家に帰った途端に、孫がホギャーと泣いているのを見た途端に、本当に赤子の様な心になり、心が洗われるような気持ちがいたします。無条件に孫が可愛いのです。


 ○根本知と分別知
 このような赤子の心を仏性と言っても良いでしょう。岡田利次郎先生は根本知という動的な言葉で捉えました。 伝書鳩は自分で計画し分別心を働かせなくても、何百キロも飛んで正確に戻ってくる。この宇宙を動かしている現象は、人間の英知(分別心)では計り知れない無限の力を秘めている不可思議な世界です。その働きが根本知と言ってもよいでしょう。私たちの心身の中にも百%備わっていると、お釈迦様が証明して下さいました。 最初は赤子の心ですが成長するに従って、図Aのようになります。根本知がちょっと小さくなって、その代わりに出てくるのが(「分別」と小さい字で書いておきました)分別知です。いつも仲間とああでもないこうでもないと言って、儲かったり損したりしている内に、何となく自分が有るように思ってきます。それと同時に自分以外の向こう側に、自分では無い何かが有るように思ってきます。自我が無ければ向こうもこっちも無い、赤子の様な真っ新の仏性の心である根本知だけです。こうすれば認めて貰え嬉しい。このようなことを絶えず繰り返す内に、図Bのように分別する知恵、(分別知)がだんだん大きくなってきて、20歳位になると分別知の働きは最高度に発達すると言われていますが、それに比例して悩みも増えていきます。さらに経験を重ねて40〜50歳位になると、この分別知は不動のものになって、そこから一歩も抜け出せなくなることもあるでしょう。反対に根本知の働きは小さくなってしまい、根本知が有ることさえ知らない。考え方のパターンがしっかりして、自分と周りのものとは決定的に分断され、あらゆるものとの相対的関係が出来上がります。このようにいつも自分中心に相対化して駆け引きを行うのが分別心であり、それが苦の根元ということになります。言葉で解釈していく世界でもあり、それを体系化して出来上がったものが学問です。


 ○根本知と分別知のバランス良い成長
 分別知と根本知のバランス良い成長ができない場合があります、特に決まり良い子供。父母の言うことを良く聞く、いわば優秀な子供です。お父さんお母さんが喜ぶから算数の勉強をがんばる。父母の喜びが自分の喜びであると決めてしまった分別知中心の子供です。ですから非常に背伸びして、いじらしく演じている訳ですが、遂に耐えられなくなって不登校になったりします。これが子供の内だからまだ良いのですが、大人になるまでそういうことが続いていくと、ついには人格崩壊をきたすようなことが起こります。 そのような子供は成長過程で自然体験とか直接経験等が極端に不足しているように思います。山や川へ行けば、自分の思うようになど絶対になりません。例えば自分が川を堰き止めよう等と思ってもできるものではありません。まかり間違うと川に流されて大変な危険が生じます。豊かで変化に富んでいて、どんな科学をもってしても解明し尽くすことはできない未知の世界が開かれているのです。


 ○根本知と分別知の関係
 根本知や分別知がどのようにできるかお分りいただけたと思います。次にそれらの知恵はどのようにはたらくのでしょう。岡田利次郎先生の言葉で言うと、まず分別知は「見ようとして見る。聞こうとして聞く。考えようとして考える」そのようにはたらく知恵だというのです。例えば、坐禅をしている時に目を開いていますから何時も何かが見えます。あそこにゴミが落ちている、あれは何だろう等とやっていくと、見ようとして見ていることになります。それから聞こうとして聞く。ブーと鳴っているファンの音を聞いて。何が鳴っているのかな?変な音がするな?このように聞こうとして聞く。  ところが根本知と言うのは、「見ようとしないでも見てしまっている。聞こうとしないでも聞いてしまっている。考えようとしないでも考えてしまっている」知恵です。外でチュンチュン鳴いているのは何だろうと考えなくても、雀ということが既に分かってしまっているのです。ブーと鳴っていのはファンの音だなと考えなくても、ファンの音であることは分かっている。時々止まったとか、鳴り出したとか意識して、瞬間的に「ようとして」聞くけれどもすぐ忘れて、いつも聞こえているのですが聞こうとしていない、それでいながら鳴っている音はファンの音だということを100%知ってしまっているのです。そのようにはたらく知恵を根本知と言います。 私達はいつも根本知を働かせて生活しているといえます。しかし自分の生活は全て自分で考え、分別して行動していると思い込んでいますから、おおむね根本知が働いていることさえ知らないのです。しかも分別心で幾ら考えても根本知を捉えることはできないという関係になっているので、私たちは分別心ばかりに囚われ、根本知を動員した豊かで創造的な生活ができにくくなっているのです。その結果いろいろの苦しみや争いが起こってくる。 「赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ證據せざる者は看よ看よ」と臨済禅師が叫んでいらっしゃいます。根本知と分別知を自在に駆使した「一無位の真人」を目指して、日々精進をしてまいりたいと思います。


(注1)岡田利次郎・大正4年東京に生まれる。慶応大医学部卒。内科小児科医師。昭和34年より在家禅会担雪会を主催。著書に「坐禅のすすめ」「正法眼蔵解読」がある。

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