環境問題を考える


講話 桐 山 紘 一

峯の色渓の響きも皆ながら我が釈迦牟尼仏の声と姿と(道元)
 峯の松は無惨にも枯れて赤茶けてしまい、渓はコンクリートの水路で覆われ、生き物の息遣いが感じられません。秋空を埋め尽くした赤トンボは何処へ行ってしまったのでしょうか。これが現代の仏の姿であり、しかも私達自身の姿でもあります。法身に目覚められた釈尊ならば、これら無謀な環境破壊の現実には居ても立ってもいられないというのが真実でありましょう。

蛍の復活にかける
 それは平成六年のことです。私の家の近くの小川が宅地造成のための周辺整備で、埋め立てられることになりました。宅地造成によって出た残土を渓に埋めて、小川は土管にして、その上に道路を敷設するという計画です。私は住民の一人として、生き物の宝庫である小川を埋めることだけは止めて欲しいと懇願したのです。しかし、町開発公社は勿論、地域の人達から宅地開発に協力をすべきだと言って顰蹙をかってしまったのです。
 そこで、平成五年に環境保全と開発に関する法案が国会で可決されたことを取り上げ、代替え案を提出し、再三にわたって検討を依頼したのです。道路は別ルートを検討すること。残される水路はコンクリートの三面張りではなく板張り等にし、小川の底は砂利を敷き詰めて蛍等の生き物が再生できるよう環境に配慮した工事をすること。そして、「蛍の舞う住宅団地」として売り出したらどうかという案です。幸い、ほぼその案が受け入れられて検討が繰り返され、農業用水路と環境水路が併設された、二百五十メートルのエコ水路が完成したのです。
 池を中心にして、上流はコンクリートでしたが、護岸工事用の擬石ブロックを敷き詰め、側面は板張りにしてあります。池の下流はエコ水路と農業用水路が併設してあります。エコ水路はL字型の土留めコンクリートを使い、水路の片面は板張りにし、板を支える杭の部分だけは、川底の土が残るようにした画期的なものです。
 道路を別の場所に作るのにもかなりの費用がかかったもようで、効率と経費を度外視した環境保全のためのこのような工事は、行政の理解と環境保全への熱い願いがあったからこそできたことです。
 このような水路ができたことは大変喜ばしいことですが、一部の地域住民からは水路を二本も並べて、無駄なことをしたと後々まで非難されることにもなりました。
 さて、この水路ができる以前でも、蛍はほとんど絶滅している状況でしたから、復活はかなり難しいのではないかと予想されました。三年経過した頃から蛍の餌である河蜷や、ドジョウ、沢ガニなどは復活したのですが、いつまで経っても肝心の蛍が飛び交う気配はありません。蛍が飛び交う住宅団地として移り住んだ人達は、騙されたと言い出すし、無駄な工事をしたといって、ますます非難の声は大きくなるばかりでした。私の家の前で「先生なんてものはろくな事を考えない」と、大声で騒ぎ立てる始末です。
 何とかしなければならないと思い、蛍の幼虫を養殖することを考え始めた矢先でした。大きな光を放つゲンジボタルが飛んだのです。何と水路工事をしてから七年が経過していました。
 この界隈ではヘイケボタルは少し見かけていましたが、ゲンジボタルは四十年以上も前に絶滅したものと思われます。それが何故復活できたのでしょうか。おそらく最上流の水源近くに生息していたものが、除草剤を使った水田の水が流れ込まない、環境が整った水路ができたので、幼虫が流されてきて棲息したものと思われます。そのために七年間を要したことになります。
 早速、蛍の勉強会を計画したところ五十人ほどの参加がありました。そして本年度、三日間にわたる蛍観察会には毎夜二十人程の参加があり、蛍の復活を喜び合うことができました。住民と行政の画期的な取り組みとして、新聞に写真入りで大きく取りあげられ、無駄な水路を造ったという非難は漸く影を潜めました。
 この水路建設に当たっては一刻も猶予のない状況でしたので、住民側は私の一人相撲となってしまいましたが、これはやはり住民の意思を盛り上げた所からの事業であるべきであると強く反省したところです。

生き方としてのの環境問題
 温暖化をはじめとする様々な環境問題は、今や人類が未だ経験したことのない危機的状況にあります。
 レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いたのは、五十年程前のことです。そこで警告された環境汚染による食物連鎖と生物濃縮の脅威は、ますます増大するばかりで根本的解決にはほど遠い現実です。利害を中心にした経済と政治のレベルでは到底解決できるものではないように思われす。
 仏教では、自然を人間と相対したものとしてではなく、自己を含めた統一体としてとらえ、また、生態系のすべての様相を、「空」を背景にした相互依存関係の縁起としてしてとらえることができます。このような縁起観は全てのものを生かして働く中道として、現実化されていきます。
 仏教(禅)の修行は、空観(法身)を体現することにありますから、自然との共生の態度や思想は自ずから実現してくるはずです。
 生けとし生けるものの美しさ、掛け替えのない尊さがこの身に感じられ、慈しみの心が彷彿としてきて、全てのものを生かす働きが必然的に起こることでしょう。それはレイチェル・カーソンの恐れと悲しみであり、戦いと挫折の繰り返しになるかもしれません。
 このような態度は、資源は有限であるから節約し公平に分配しなくてはならない。または、このままでは人類の未来が成り立たない。などという道徳的、義務的態度を遙かに超えた主体的な生き方となり、これこそ環境問題を根本から解決する唯一の道であるように思います。
 それは、人間が最高の尊厳をもっており、生き物や自然を絶対的に支配する権利をもつという見方を根底から覆すものです。言葉を代えて言えば、仏教の環境問題に対する使命は、自己中心的態度から生態系中心の態度への転換であるともいえます。ここまで体得できると、環境問題はきわめて日常的で個人的なものとなり、日々の実践に展開されていきます。
 禅堂の修道生活は、一切の無駄を省き、全てのものを生かすように工夫されており、そこから何と多くのものを学ぶことが出来ることでしょう。
 現代の最大の危機を脱出するのに、仏教の思想・実践が大きく貢献できると確信しています。


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