その4

桐 山 紘 一    .

●縁起から空へ

 「縁起から空へ」という表題で書き始めましたが、これでは「縁起」が変化して「空」になるという意味に捉えられると思います。しかし、先に述べたように「縁起」と「空」は、全く同じことを別の視点から表現した言葉ですから、「縁起」が変化発展して、「空」になるといことではないのです。したがって正確には「縁起即是空、空即是縁起」という表現が適切かと思います。

 今まで、お釈迦様の縁起観を中心に述べてきたので、今度は話題を「空」の思想に展開するという意味で、「縁起から空へ」という表題にしたことを先ずお断りしておきます。

 さて、「色即是空、空即是色」の「色」とは、あらゆる「もの」や「こと」を指しており、それが「空」であるというのですが、そのような言葉だけで「空」を捉えることはかなり困難です。縁起と空(その1)で、私の経験から述べましたが、「色」を「縁起」と捉えることができれば、「空」の全貌がはっきりするように思います。

 「色」即ちあらゆる「もの、こと」は、「縁起」の働きそのものですから、「色」には恒常普遍の「独自性・自性」と言ったものは無く、「空」であるということです。「縁起即是空、空即是縁起」ということで、始めから並べると「色即是縁起即是空」「空即是縁起即是色」ということになります。


●縁起の理法

 縁起の理法については、できるだけ具体的に考えることによって、たやすく「空」を捉えることができると思われますので、次に例を上げて考察してみたいとお思います。

 例1.机上に一枚の紙が有ったとします。紙の下に机が在って紙を支えているから、紙がここに存在することができる。紙を支えている机、机を支えている床、床を支えている土台、土台を支えている大地、大地は宇宙へと、無限に広がっていきます。このように紙一枚がここに存在するためには、多くの「もの」が無限に関わり合って、存在しているというのが真実です。もう少し端的に表現すれば、無限に広がっている世界が、そっくりそのまま紙として現れていると言った方がより適切です。このことを華厳哲学では「一即一切、一切即一」と表現しております。

 また、ここに紙を有らしめるためには、適度な温度や湿度の空気が無いと存在しない。空気は酸素が無いと〜、酸素は植物の同化作用によって作られますから植物の働きが無いと〜、植物は大地や光りの働きが無いと〜。このように紙一枚が全ての「こと」に無限に関わり合いながら存在しているのです。従ってこれらの関係が無くなると、紙は勿論、すべての「もの、こと」は成立しなくなってしまいます。

 紙という独立したもの(固有の実態)は存在せず、紙を有らしめる関係性(縁起の理法)のみが働いているということになり、それが「空」ということです。
 このような依存関係は、空間的縁起と言われております。

 例2.また、ここに一枚の紙があります。この紙を半分に切り、さらに四分の一にして、次は八分の一に、だんだん細かく千切って行きます。最後には細い繊維のようなものになるでしょう。このような場合、どこまでが紙で、どこから紙で無くなるのでしょうか。

 紙の原料は木材です。これを細かく砕いてパルプを作ります。色々の薬剤を使って調整しながら紙ができ上がります。やがて紙は酸化して変色したり分解したり、人為的に燃やされたりして変化していきます。いったいどこからどこまで木材で、どこまでがパルプで、どこから紙なのでしょうか。ある程度の線引きはできるかもしれませんが、厳密には殆ど不可能です。


●言葉の虚構性

 紙というのは名称であり、変化し続ける世界のある部分を指して、人間の都合によって仮に命名された言葉の概念です。従って、変化し続ける事実そのものではないのです。このことを、言葉の虚構性としてお釈迦様が述べていますが、その虚構性によって、私達は全ての「もの、こと」を実体のあるものとしてとらえるようになり、分別意識が成立していきます。そして、その対局に自我が生まれ、「もの、こと」を相対的に捉えるようになり、それが人間の執着心や苦悩、不幸の原因となっているのです。(詳しくは「根本知と分別知」を参照)

 このように変化し続ける事実の世界は、本来、言葉や概念で表すことも捉えることもできないのです。従って、ただ原因と結果による相互依存関係、つまり「縁起の理法」が無限に働いているのみの空漠たる世界、いや、完全無欠に申し分なく働いている絶妙なる世界です。これを先に時間的縁起と述べました。

 このように、私達が言葉によって認識している「もの、こと」は、固有の実態(自性)が無く、全ては縁起の働きそのものですから、「もの、こと」は有るとも無いとも言えないので「中道」とし、また「仮」に存在しているとしか言いようがないので、その状態を「空」としたのです。

 したがって、真実は「空」であるが、それはとりもなおさず「仮」であり「中」であるというのが中観思想です。また、中観の「中」とは、単なる中間という意味だけではなく、適中しているというような意味で、真理を端的に表している言葉だともいえます。


●「根本中論頌」に於ける縁起と空

 根本中論頌(以後中論と言う)は、龍樹の代表的な論書ですが、これは大乗仏教の般若思想をもとにして、釈尊の縁起観を復活強化し、部派仏教の非仏教的な思想(実体論)を論破するために書かれたと言われております。それ以後の中観思想の中核となった「縁起・空」のエッセンスを、中論の中に探ってみたいとおもいます。

 まず、その冒頭の礼拝の偈は、本書の意図するところを簡潔に、余すところなく表現しています。

 『滅することなく、生ずることなく、断滅することもなく、常住でもなく、同一でもなく、異なっていることなく、来ることなく、去ることもないという縁起(依存性)は、言葉の虚構性を超え、吉祥(めでたい)なるものであると仏陀は説いた。その説法者の中の最上なる人として私は敬礼する。』 (以下、三枝充恵「中論」の和訳を参照)

 『滅することなく、生ずるとなく・・・』という否定は、「空」を表す言葉として般若心経の中でも同じように強調されています。いわゆる「もの、こと」には実体がなく、「無我・無自性」であることを強調するために、これらの「八不」と言われる否定を中論の冒頭で取り上げ、説一切有部等に代表される実体論としての仏教を、真っ向から批判していきます。

 『縁起は言葉の虚構性を超えて吉祥なるものである。』という釈尊の言葉は特に注目したいところです。言葉の虚構性については先に述べましたが、それに付け加えて、「縁起・空」という言葉は単なる法則とか虚無と言った冷たいイメージがありますが、本質はそのようなことではなく、吉祥なる(目出度い、至福なる、喜ばしい)ものであると釈尊が説法されたということです。その釈尊を敬礼すると龍樹は宣言しているのです。

 宣言というより敬礼ですから、釈尊に南無し、帰依するという言葉の方が相応しく、龍樹の深い実践的姿勢をうかがい知ることができます。

 さらに中論では「縁起の理法」をクローズアップし、次のように述べています。
 『どんな縁起でも、それを我々は空性と説く。』
 『何であろうと縁起して起こったものでないものは存在しないから、如何なる不空なるものも存在しない。』(中論24章)

 このように全ては「縁起」のみが働いている、ありのままの世界を「空」と表現しているのです。諸法は「縁起」なるがゆえに「空」ということです。この主張が中論のすべてであると言っても良いでしょう。


●無自性なるが故に空である

 さて、自性の否定(無自性)は中論の主眼としているところです。何故ならば『お釈迦様の縁起観』のところでも述べましたが、お釈迦様は縁起の理法を発見され、当時のウパニシャド哲学が主張している、三世に渡って輪廻転生する我や霊魂といった主体(アートマン)は存在しないということを確信して「無我」を主張され、三宝印の一つとして、「諸法無我」が位置づけられてきました。ところが部派仏教の時代になって、物事の本質が三世に渡って実在する、つまり自性をもって輪廻転生するという非仏教的な実体論としての仏教が復活してきてしまったのです。

 龍樹は釈尊の立場に立って、物事の実体を認めない「無自性・空」の真理を掲げて、死後の世界への転生を意図した実体論を徹底的に否定、批判していくのです。

 自性については、中論の中で特に1章を設けて論述しているのですが、その一部を次に引用してみます。
 『自性(固有の実態)が、縁と因とによって生じることは可能ではない。因縁より生じた自性は作られたものとなろう』
 『さらに、自性は「作られたもの」であるということが、どうしてありえようか。何となれば、自性は「虚構されたもの」でなく、また「他に依存しないもの」であるからである。』(15章)

 <注釈> 常住なものとして存在するものが自性であるから、自性が因縁によって生じているのであれば、自性としての性質を失ってしまう。つまり因縁によって作られたものになってしまう。阿比達磨仏教では自性と縁起を同時に認めているので、それに対する批判であろう。
 諸法は因縁によって虚構されている。自性はそのような実態のないものではないのであり、他に依存しないものが自性であるから、作られたものならば、自性ではなくなってしまう。

 要約すると、諸法は「無自性」なるが故に「縁起」しているのである。「無自性」でないならば、恒常普遍の実態があるということになるから、変化する依存関係としての「縁起」は成立しないということになります。

 龍樹はこのような四句否定や帰謬法などをふんだんに使って、無自性の本質を提示しながら、実体論を批判していくのです。

 中論ではさらに「無自性」について様々の例を上げて綿密に論述していきます。「火と薪、我と無我、運動に於ける依存関係等々です。言葉の論理学とも言われているくらい複雑に展開されており、大変難解になります。

 ここではそこまで深入りせずに、先に「縁起の理法」のところで、縁起を理解するための具体例として、1〜2を上げて考察しました。また、「縁起と空」(その1)で、時間的縁起、空間的縁起、相反する2つの概念に於ける依存関係としての縁起(論理的縁起とも言われている)等々を再確認していただければ、「無自性・空」を定言論証的に直接表現してありますので、より直感的に捉えることができるのではないかと思われます。さらに再確認していただければさいわいです。


●釈尊に帰る

 お釈迦様や龍樹尊者がご覧になっている「色」は、「無自性」なるが故に「縁起」しており、「縁起」なるが故に「空性」である。さらに、ここへ「八不」を付け加え、分かりやすくするために図のような円環縁起としてまとめてみました。


 これを、我々凡夫の視点から実践的に見ると、「色」が「八不」によって否定されると、あらゆる「もの、こと」は、「無自性」であることが洞察されるようになり、それを無心に観察していくと、自己を超えて働いている膨大な「縁起」の世界が捉えられ、それは取りも直さず分別意識(言葉の虚構性)を超えて、完全無欠に申し分なく働いている 縁起の理法「空」であることが直覚されます。

 どんな言葉をもってしても、その大いなるなる働きを表現することは困難でしょう。釈尊は唯々「吉祥なるもの」と賛嘆され、それを「四諦」「十二支縁起」「八正道」などの法門として開示されたのです。

 龍樹は釈尊に帰依し、非仏教化した実体論を批判し、釈尊の法門をさらに強化しようとして中論を表したのですが、さらに中論の最後には「四諦」を取り上げてまとめとしていることをみても、このことを強くうかがい知ることができます。

   即ち、『業と煩悩が滅びて無くなるから解脱がある。業と煩悩は分別から起こる。ところで、それらの分別は戯論から起こる、しかし戯論は空性におい滅びる』(18章)

 『この縁起を見る者は、(仏を見て)即ち苦・集・滅・道を見る』(24章)・・・・と。


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